右翼と警官が徘徊する緊迫の追悼式 虐殺は歴史の事実

関東大震災の朝鮮人虐殺・都知事が追悼文見送り

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渡辺学(東京都民)

墨田区長も追悼文見送り

 毎年、東京都墨田区両国の横網町公園にある、関東大震災時の朝鮮人虐殺を追悼する碑の前で、「関東大震災94周年朝鮮人虐殺追悼集会」が行われる。韓国からの参加者もあり、日本人や在日韓国・朝鮮人らが関東大震災時の虐殺犠牲者を追悼し、あのような残虐なジェノサイドを繰り返さないことを誓い合っている。
 今から94年前、1923年9月1日正午頃、関東地方で大地震が起きた。大震災後の戒厳令下、数多くの朝鮮人や中国人が虐殺された。私たち「普通の」庶民が残虐な虐殺に手を染めた。近代日本史上の絶対に繰り返してはならない「恥ずべき歴史」にほかならない。
 9月、東京の路上で何が起きたのか! その国家責任・民衆責任は、戦後もずっとあいまいにされたままだ。東京だけではない。川崎や横浜で、千葉で、埼玉で、山梨で、その他の地域でも虐殺は行われた。行政(墨田区)が、「墨田区で(虐殺が)あったかどうかは、公的資料がないため、事実であるという確認には至っておりません」などと放言したり、最近では「自警団による朝鮮人殺傷は正当防衛だった」などと主張する者も登場している。
 そうした情勢に後押しされて、今年の9月1日の直前には東京都の小池百合子知事や墨田区の山本亨区長が、市民たちが毎年行ってきた横網町公園での追悼集会に追悼文を送ることを断るという事件が起きた。石原都政下でも都は追悼文を送っていたにもかかわらず。 

関東各地で追悼式開催

 そうした緊迫した情勢もあって、今年は平日昼間の追悼集会に多くの人が集った。追悼碑の裏では、小池百合子都知事を支持しているといわれるグループ「そよ風」らが、テントを張って日の丸を掲げて「真実の関東大震災 石原町犠牲者慰霊祭」「六千人虐殺は本当か!」「日本人の名誉を守ろう!」などと看板を立てていた。公園内は機動隊、公安私服、SPらが徘徊して物々しい雰囲気だった。
 9月1日前後には、関東各地で追悼のイベントや集まりが開催された。来年は小池百合子都知事と山本亨墨田区長に、きちんと追悼文を出させる運動を、これから1年展開していきたい。 

中国人も虐殺 背景にあるもの

 戒厳令下、中国人も虐殺された(大島事件や王希天虐殺事件が有名)。中国人虐殺に関与した警視庁亀戸署は、川合義虎 (日本共産青年同盟委員長) や平沢計七ら日本人の労働組合活動家や社会主義者10名を検挙し虐殺した(亀戸事件)。当時の東京府南葛飾郡亀戸町(今の江東区亀戸)あたりは、労働争議がさかんで、南葛飾労働会(のちの東京東部合同労組)などが固い団結で労働者を組織していた。そこに「朝鮮人が暴動を起こす」「社会主義者が煽動している」というデマが意図的に流布された。
 背景には、第1次世界大戦後の不況のなかで活発化した労働運動、ロシア革命の勝利、民族自決権を要求する朝鮮の3・1独立運動や中国の5・4運動など植民地や占領地での反帝闘争の高まり、といった情況があった。日本帝国主義天皇制権力は、大震災後に戒厳令を発し、闘う人々、体制に好ましくない人々を次々に血の海に沈めたのだ。
 94年後の今日も、安倍政権による戦争政策や新自由主義政策のなかで矛盾が深まっている。さまざまな抵抗がやがて爆発していくことは必至だ。その時にまた、日本国家はむき出しの暴力を発動するのか。
 戦前、戒厳令が敷かれたのは3回だ。日比谷焼き討ち事件(1905)、関東大震災(1923)、二・二六事件(1936)。あえて元号(天皇を中心とした時間軸)でみてみれば、明治・大正・昭和に一度ずつ。大日本帝国憲法の第14条に「天皇は戒厳を宣告す。戒厳の要件及効力は法律を以て之を定む」と明記され、天皇大権のひとつとして勅令=天皇の命令で発動された。
 戦後日本の法体系のなかで戒厳令を発令することは不可能だが、2003年に制定された有事立法のなかで「武力攻撃事態」における基本的人権の制限が規定されている。さらに、安倍政権がもくろんでいる改憲―「緊急事態条項」も戒厳態勢に道を開くものだといわなければならない。
 まさに今、朝鮮民主主義人民共和国との緊張関係を煽って、戦時排外主義キャンペーンとともに進められる新たな国民統合、共謀罪制定に象徴される治安弾圧体制の強化が進められるなかで、この恥ずべき歴史を振り返り、対象化しなくてはならないと思う。

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