小倉利丸さん(元富山大学教授・ネットワーク反監視プロジェクト)
7月24日、小倉利丸さんの講演会「ぶっ飛ばせ!共謀罪」が行われた。小倉さんは、元富山大学経済学部教授で、現在はネットワーク反監視プロジェクトで活動している。主催は、「共謀罪あかんやろ!オール大阪」。以下に講演内容を記す。(編集部)
「常識」は権力のイデオロギーだ
共謀罪への反対運動を今後も継続することは当然として、これまでの反対運動で十分に議論されてきたとはいえない幾つかの重要な論点と、共謀罪成立後の日本における刑事司法と私たちの自由の権利との新たな構造について考えてみたいと思います。
マスメディア、教育、政府の中で構築された価値観が「常識」として通用する現状においては、権力にとって都合よく再構築された価値観が「常識」と呼ばれるようになります。反政府運動に関わること、共産主義やアナキズムを支持すること、戦争に反対し相手国の人々と連帯すること、などなどをテロリズムと呼ぶのが「常識」とされ、裁判員制度は、それが処罰の基準になることを正当化しかねません。政府にとって都合のよい考え方を裁判員を隠れ蓑に「常識」と呼ぶだけであり、その実態は、権力のイデオロギーにすぎないのではないでしょうか。
時代の流れの中で、政権の意向や権力関係に大きく左右されるのが「常識」です。私たちにとって重要なのは、「国民」や「日本人」の常識に与せず、権力にも与しない、大衆的なマイノリティとしての立場を権利として確立すること。左翼としての共通の理解を構築して対抗することです。
「国家のテロ」こそ批判を
メディアにより、「共謀罪で検挙」などの警察発表のタレ流しが繰り返されることで、「共謀は犯罪」という「常識」が構築されます。盗聴捜査への批判が影をひそめたように、いったん合法化された捜査手法は容認されるのです。共謀罪を前提とした地域社会の「防犯」対策により、住民の相互監視や密告とマイノリティの排除が進み、こうした住民の活動を通じて地域社会の「常識」が構築されます。
共謀罪を前提としたビジネスチャンスが拡大し、監視テクノロジーを「常識」として需要するライフスタイルができあがるのです。
テロ対策で本当に必要なのは、植民地主義の歴史的な反省のなさも含め、欧米列強の国家によるテロが事態を悪化させているという国家犯罪、あるいは国家によるテロの問題についての認識です。共謀罪反対運動は、テロ対策に対し、どのようなスタンスをとっているのでしょうか。「共謀罪の本質は、テロ対策に名を借りて、心の中で思ったことを処罰することにつながる恐れがある」ということといった批判の切り口では不十分なのです。
テロ対策の必要について与野党ともに否定しないのは、国会の審議を通じてはっきりしました。共謀罪がテロ対策として効果があるか、テロ対策を真の目的としているのかが、問われたに過ぎなかったのです。「テロを口実にして共謀罪を成立させようとしており、真の目的は広範な反政府運動の弾圧にある」というのはその通りですが、共謀罪は、広範な反政府運動をテロリズムとして再定義して弾圧することを正当化するのではないでしょうか。
テロリズム=悪は政府や権力者の図式
ここで注目すべきは、私たちが自分自身をどのように認知しているかでなく、政府が私たちをどのようなカテゴリーに分類しようとしているかです。政府が私たちを「テロリスト」と呼べば、私たちは「テロリスト」のレッテルを貼られ、メディアにも「世間」にも認識されるのです。こうした政府によるレッテル貼りを「間違いだ」と主張し続けることは大切ですが、それだけでなく、意味を規定する力を奪い返さなければならないのです。
テロかどうかの認識には、歴史認識やイデオロギーが深く関与します。テロリズム=悪という図式は、政府や権力者の図式であって、この図式を私たちも共有すべきではないのです。
私たちにとって、肯定すべきテロリズムもあれば、否定すべきテロリズムもあります。反政府運動や反植民地闘争の歴史認識に関わる話です。テロリズム問題の重要な核心は、国家テロリズムの問題です。国家が発動するテロリズムは、国家が暴力的な威嚇を用いて反政府運動を萎縮させていますが、そのことが不当に軽視あるいは正当化されているのです。定義をめぐる問題は、社会認識をめぐる対立の中で、私たちがどのように行為を評価するのかという私たち自身の価値観、世界観が問われます。
私たちの対抗手段として、法的な取り組みは、(1)廃止法案(共謀罪、盗聴法など)を野党に出させる。(2)警察法を改正させ、警備局の廃止をかちとる。プライバシー防衛のための自衛対策としては、(1)ネットコミュニケーションの文化を変える(匿名性を確保できる技術の使用)。(2)ウィキリークス、海賊党などのコミュニケーションの権利運動。が、あげられます。
まずは、犯罪と刑罰を根本から問い直さねばなりません。そもそも、戦前からの刑法の共存を許している刑法の世界そのものを疑う必要があります。戦後全面改正された刑事訴訟法が必ずしも人権に配慮した法とはなりえていないことも念頭に、憲法と刑事司法総体の限界と矛盾を問いましょう。
とくに、社会変革の民衆の権利を刑事司法制度は本質的に抑圧するものでしかないことをふまえ、刑罰・監獄は必要なのかといった議論が必要なのです。
共謀罪反対運動は、個別の刑法問題を超えて、近代刑法そのものを根底から問う視点を獲得する運動になる必要があると思います。