下地真樹(阪南大学経済学部准教授)
注目を集める大学の高学費・奨学金問題
近年、大学生の学費負担、奨学金の問題が注目を集めています。低額ないし無料が一般的なEU加盟諸国の学費に比べると、年間百万円前後を必要とする日本の大学の高学費は一目瞭然です。
他方で奨学金はと言えば、その大半は、返済義務も利子もある「教育ローン」だというのが実態です。最大規模の奨学「ローン」の提供者である日本学生支援機構は、返済できない若者に対して厳しい取り立てを行う方針を掲げており、「奨学金を借りた」ばかりに自己破産せざるをえないケースまで出ています。
こうした問題が注目を集め、批判が集まる中、政府もようやく重い腰を上げ始めたように見えます。「給付制奨学金の創設」といった施策が、ようやく与党からも提案されてくるようになりました。一定の成果とは言えると思います。
しかし、提案の中身を子細に見ていくと、これらの変化を手放しで歓迎してばかりもいられない状況もあります。
その内容はと言えば、向学心を持った多くの若者の門戸を開こうとするよりは、一部の成績優秀な若者に選択的に機会を与えていくような仕組みに傾いているきらいがあります。一言で言えば、普遍主義よりもエリート主義・選別主義へ偏っているわけです。このズレをきちんと見て警戒しておく必要があると思います。
普遍主義か選別主義か
このズレは、この問題に対する議論の状況を反映しているように思えます。たとえば、「大卒とそれ以外の人々の生涯所得の格差」を示した上で「(より高い所得を得る)機会均等」の観点から「大学教育にアクセスする機会の平等を」と訴える議論があります。これはこれで大事な議論ではありますが、それだけでいいのかについては疑問があります。
なぜなら、こうした観点からすれば、高等教育へのアクセスが選別主義的であることへの批判的な視点は導かれないからです。
場合によっては、「生涯所得を高める専攻分野への進学に限り」門戸を開くような政策でも構わないですし、さらに言えば、別の政策目的と連動させて「その政策目的に関連した専攻分野への進学に限り」という政策となることも批判できません。
やはり、前提となる教育観や教育の価値の位置付けについて、普遍主義と選別主義の緊張関係について、もう少し丁寧な検討が必要ではないかと思われるのです。
権利としての教育
出発点となる原理原則をきちんと確認しておくことが大事だと思います。そもそも、なぜ、大学で教育を受ける機会が大事なのか、平等に保障していく必要があるのか、ということです。
以前、次のような意見を聞いたことがあります。「さまざまな基本的人権の中で、最も重要な権利は何か。それは生命に関わる権利かもしれない。しかし、そうした権利を守るためには何が必要か。言論の自由や表現の自由も大事ですが、広い意味での知性こそが言論や表現を支えるのだとすれば、教育への権利はより根源的な権利、言うなれば、二番目に大切な権利と言えるのではないでしょうか」。かつて、ファシズムによって世界戦争を引き起こし、その惨禍への切実な悔恨と反省から戦後世界が出発していることを考えれば、とても大切な視点ではないでしょうか。
具体的には、国際人権規約が一つの規範となると思います。A規約13条には、「人格の完成」「人格の尊厳についての意識の十分な発達」等の教育を通じて実現されるべき目的と共に、初等教育から高等教育に至るまで「漸進的な無償化」が目指されるべきことが謳われています。日本もまた、この道を目指すべきです。
ちなみに、日本は最近までこの「高等教育無償化条項」に同意していませんでしたが、2012年、留保を撤回しました。つまり、高等教育の漸進的無償化に着手することは、国際社会に対する公約でもあります。四の五の言い訳をせずに、国際人権法の理念の基礎の上に立ち、無償化にむけた具体的施策に着手していく責任があるのです。