使い捨て時代を考える会 槌田 劭
原発時代の終末は近い。原発ムラの金庫が心細くなってきたからである。「金だけ、今だけ、自分だけ」の原理で動く世を、私は《金主主義社会》と呼んでいる。主権は在民せず、お金の力に奪われているからである。原発ムラが原発をあきらめざるを得なくなるのは、金銭経済的に立ち往生するときであり、消費者主権が回復するときである。
原発産業の破綻
東芝の苦境が象徴的である。その流れを世論の力によって決定づけるのが、消費者電力の自由化であろう。昨年4月以来、1年間で60万件以上の小口電力契約が関電から新電力会社に移っている。契約が5%も減少することは、関電にとってきびしいことだろう。それでなくても、節電と景気動向を反映して、福島事故前と比べて、5年間で15%も販売電力量を減らしているのである。
関電の狼狽ぶりは、ガス自由化に伴う事業参入の過剰宣伝、大阪ガスへの脅しとも見える過剰反応からもうかがえる。原発事業が重圧となって価格競争に後退する現実はきびしいが、目先の金勘定では原発再稼働の幻想にすがるほかないのだろう。
関電も企業生き残りをかけて真剣なのであろうが、その経営体質は「親方日の丸」であり、原発依存は硬直化してしまっている。多年にわたる政府認定の総括原価方式に毒され、経営の苦労もなく儲かるシステムで、経営能力も衰弱しきってしまっている。
経費の3%を自動的に利益と認められるシステムで、原発ムラの育成裏金となる経費水ぶくれ利益を許していた。官界だけでなく、マスコミや学界への工作資金は、原発の「安全神話」をでっちあげ、福島事故を呼んだのである。
電力自由化によって電力事情には激震が起こっているが、関電は原発再稼働以外の知恵はないようだ。原発安価神話の幻想はすでに破綻しているのに、当面の金勘定から、限界費用の小さい原発の再稼働に執念を燃やすのは、新電力との価格競争に対抗できないからである。
原発再稼働への準備を急ぐ中で、過労自殺や高浜原発でのクレーン倒壊などの事故が発生している。無理に無理を重ねた上での再稼働が重大事故を呼ぶのが分かったが、その危険にも目をつぶる関電の経営姿勢には、末期症状の危険が露出する。
世論の圧力で流れは変わる
危険な現実は強まっているが、原発のコスト高が顕在化してきたからである。それも脱原発世論の圧力故である。京都でも、脱原発の市民的運動は持続的に継続している。私が参加する「使い捨て時代を考える会」の毎月11日の定例行動では、地震発生の2時46分から1時間、関電京都支店前(京都駅前)に10~20名が集まって、チラシ配りや署名活動を行っている。福島事故を忘れないためでもある。2011年4月からだから、6年を過ぎた。
また、毎週金曜日6時から7時まで、京都支店前に100人前後の人びとが集い、脱原発の声をあげつづけている。それも2012年5月からだから、5年になる。私は職員出入口で、退社する職員を観察することにしている。社員の中に脱原発の声へのいらだちの目立つのは変わりがないが、共感も生じはじめている。今年に入って、か細い声で「ごくろうさん」「お疲れさま」と出ていく職員が3月に1人、4月に2人あらわれた。社内にも原発グループの横暴に批判的声が出はじめているとも閃聞している。
関電は福島事故後、毎年2000億円を前後する赤字へと転落した。しかし、昨年と今年の決算は黒字に回復している。石油燃料代が大きく低迷したおかげである。原子力部門が足引っ張りをしているにもかかわらず、火力が頑張っているのである。冷遇される水力や火力事業部の職員の中に、原子力事業部への不満が高まっても不思議でない。
原発の電気は割高なのである。その上、危険であって、事故発生時の対応は想像を絶する出費となる。長期的視点では良い点がない。原発を固守する無能経営で、自由化価格競争は蟻地獄となっている。
「原発の電気はいらない。買いたくない」との市民世論は、関電の原発断念へ作用するだろう。
昨年夏より、ささやかな署名活動を京都ではじめていたが、この5月から全関西に拡大したいと思っている。福島事故を忘れたかのような再稼働の策謀をやめさせるために。原発の電気を買うことで、関電の原発を「応援」するのをやめたい。
それが福島を忘れず、今も苦悩する方々に心を寄せることでもある。