名古屋経済大学名誉教授 前副学長 鈴木 正
「朝日新聞」(1月11日付)に「明治人にならい翻訳の努力を」という投稿が載った。「2020年東京五輪・パラリンピック会場見直しをめぐる関係者の議論で『レガシー』という言葉がよく使われた。『遺産』でいいのに。維持にお金がかかる『負の遺産』のイメージが付きまとわないように、ぼかしているのではと勘ぐってしまう」─同感だ。
カタカナ語ならまだ理解できるが、「フィナンシャルグループ」を意味する『FG』のように、アルファベットの頭文字だけに省略されると、さらに分かりづらくなる。私は、カタカナ語より日本語のほうが微妙なニュアンスが伝わると思う。特に漢字は、理解しやすい。たとえば、明治の知識人はフィロソフィーを『哲学』、エコノミーを『経済』と、漢字を使って訳す努力をした。
私の先輩の知人=荒川惣兵衛は、戦前から外来語の効用について注目し、『外来語辞典』を著した。そこにはやたらにカタカナ言葉を使わない節度があり、翻訳語よりも、適切な表現になる事例も示されていて、とても参考になる。 翻訳力は文化の力量を表している。江戸時代300年の歴史は、鎖国による外来思想と文化の輸入を抑制し、自国の文化を鍛えた。それによって近代化に直面した明治初期の日本が欧米から学ぶ力を蓄積してきた。だから、フィロソフィーを哲学と訳す力が備わっていたのである。現代でも、「あの人には哲学がある」というふうに使うほど内面化している。これこそが、日本文化の底力である。