ノーニュークス・アジアフォーラム・ジャパン事務局 佐藤大介
1月、台湾で「脱原発法」が可決された。2025年までに原発ゼロをめざすという。ノーニュークス・アジアフォーラム・ジャパン事務局・佐藤さんによる報告と「原発を止めるアジアの人々」(ノーニュークスアジアフォーラム編著)などを参考に、同氏の了解を得て経緯をまとめた。(編集部)
台湾では、「2025年原発ゼロ」を公約としていた蔡英文氏が総統に就任(昨年5月)し、国会は、公約実現のための電気事業法の改正案を1月11日に可決した。
同国では、国民党軍事独裁政権下、72~76年に3カ所に2基ずつ計6基の原発が建設された。1987年に戒厳令が解除され、民主化闘争が高揚したが、その大きな軸が第4原発反対運動であった。毎年、数万人規模のデモが行なわれ、野党=民進党も原発反対を綱領とし、国会でも第4原発建設の是非は、逆転に次ぐ逆転で混乱を極め、同問題は、台湾の最大の政治課題となっていた。
そうしたなか、ドラム缶10万本分の核廃棄物が持ち込まれている蘭嶼島の先住民は、96年4月、核廃棄物の追加搬入を実力で阻止している。廃棄物輸送船入港日の早朝、埠頭を400名の島民が埋め尽くし、うち70名は、伝統的なタオ族の戦闘服をまとい、手に長ヤリを持って集まった。輸送船はやむなく引き返し、ドラム缶は第1原発に戻されたが、住民らは、10万本の廃棄物を2002年までに島から出させることを台湾電力に約束させたのである。
日本からの原子炉輸出
第4原発建設予定地の貢寮郷では、94年の自主的住民投票で96%が反対票を投じた。しかし、96年に第4原発の入札が行われ、GE社が落札。日立と東芝が原子炉を製造することになる。地元住民たちは、漁船を繰り出して海上デモを行ない、日の丸の描かれたドーム型の原発模型を海上で焼くという抗議の意思も表明。97年には住民20人が来日して、通産省・東芝・日立へ抗議の申し入れも行なっている。
日本の反原発運動側も、初の本格的原発輸出に対し、署名運動、不買運動、集会、国会での質問、株主総会参加、政府との交渉など、さまざまな反対運動を展開したが、99年に着工されてしまった。
2000年、「第4原発中止」を公約とした陳水扁政権が誕生し、建設中止を発表したが、原発利権に群がる国民党の攻撃で政局は混迷を極め、2001年1月には、国会で建設継続を求める決議を採択。翌年2月に、陳総統が妥協し建設は進められてしまった。こうして03年、日立の1号機原子炉が呉港から、04年には、東芝製2号機原子炉が横浜港から輸出されたのである。
福島原発事故
しかし、福島原発事故後、ふたたび大規模な反原発デモがくり返された。11年3月20日、台北で5000人がデモ。これを皮切りに4月には、全国各地で反原発デモが取り組まれ、13年には台湾全土で20万人以上がデモに参加した。
さまざまな非暴力直接行動も展開された。フラッシュモブといわれるアクションで、バラバラにいた人が一斉に人文字で「人」の字をかたどって寝ころび、「我是人、我反核」(私は人だ、私は反核だ)と叫び、パッと散るというものだ。その後、自分の指に「反核」と書いて腕を「人」の文字にクロスさせた写真をフェイスブックにアップする「我是人、我反核」のパフォーマンスなど、ネット上でのアクションが燎原の火のごとく広がった。
14年3~4月には、「主権を返せ」と立法院占拠が行なわれた。「ひまわり革命」だ。立法院の中には若者が多かったが、実は多くの市民団体やNGOが支えていた。
毎日数千人の市民が立法院のまわりを囲んで盾となり、3月30日には50万人集会が行なわれた。原発推進も含めて、馬英九政権の民意無視・独断専行は度を越していたのだ。
立法院占拠の熱気冷めやまぬ4月22日、第4原発の廃止を訴えるため、民主化闘争のシンボルである林義雄さんが、死を覚悟して無期限断食を開始。これに呼応する形で、全国126団体による「原発廃止全国ネットワーク」が動き出した。27日、「原発を終わらせよう、主権を市民に返せ」と叫びながら、5万人のデモ隊が台北駅前で、人数の勢いで警察の封鎖を突破し、8車線道路を15時間占拠したりもしている。
馬英九政権は妥協し、2基ともほぼ完成していた第4原発の「稼働凍結」を発表した。そして2016年民進党新政権の「原発ゼロ」へとつながったのである。
台湾の脱原発宣言は、ドイツの脱原発がヨーロッパに影響を与えているのと同様に、アジアに大きな影響を与えるだろう。