2020年『オリンピックファシズムと闘う~3・11の後、私たちはどこにいるのか』(上)
2020年の東京オリンピックに向けて、各地で海外からの観光客誘致のための工事が進められている。会場となる東京では、小池知事の下で「税金を浪費しないクリーンな五輪」「被災地復興五輪」のイメージ作りも行われている。その陰で、「本当に五輪は必要なのか?」といった疑問の声は、かき消されている。
昨年12月11日、大阪市で「原発あかん・橋下いらん・弾圧やめて!」集会(主催・同集会実行委員会)の第10回目として「鵜飼哲講演会」が行われた。鵜飼さんは『オリンピックファシズムと闘う~3・11の後、私たちはどこにいるのか』と題した講演を行った。その講演の内容を2回に分けて掲載する。 (編集部)
被災地の復興を妨害する五輪
福島原発事故と東京オリンピックは、ダイレクトにつながっています。その予兆は2012年8月のロンドン五輪選手団銀座パレードでした。反原発運動が最も高揚していた時期であり、これに対抗するかのように50万人が動員され、上からの動員が行われていることが目に見える形になりました。
その意図は第一に、福島第一原発事故から民衆の関心を逸らすことであったと思います。その次に、東京五輪招致に向けた支持率向上のための大衆操作です。2012・2016年の五輪招致に失敗した理由の一つは都民の支持率が30~40%と低かったためだったので、支持率を人為的に挙げることが画策され、最終的には70%までになりました。
その4年後、2016年10月、リオ・オリンピック・パラリンピックの選手団凱旋行進が行われました。まさに戦勝祝賀パレードのイミテーションのようで、公称「80万人参加」と宣伝されました。
以上のように、東京五輪はさまざまな回路を通じて動員体制が作られつつあります。しかし、この4年間で五輪への支持が民衆レベルで高まりつつあるという印象はありません。新国立競技場の設計問題、エンブレム盗用問題、裏金問題、リベートの問題など、次から次と問題が表面化しているからです。
現在小池知事の直面する問題は築地市場の豊洲移転、五輪競技会場問題、五輪財政の膨張となっています。特に「コンパクト」と宣伝されていた五輪予算が、いつの間にか3兆円に上ることがわかり、実際はさらに膨れあがるでしょう。東京五輪に反対する隠然たる声が広がってきたのは、まず予算規模の膨張のためであり、膨大な税金が森喜朗(オリンピック組織委員会会長)を中心とする利権構造に吸い込まれていくことを、多くの人が認識するようになったためです。
こうしたなか、「反五輪の会」を中心に東京で地道に続けられてきた反五輪運動は、明治公園からの野宿者排除に反対し、霞ヶ丘アパートの取り壊しに反対してきました。取り壊しは進んでいますが、なお3世帯の高齢者が住み続けておられます。私たちが危惧したのは小池新知事の下でポピュリズムが煽られ、予算の削減、会場の変更などの微調整で話がまとまることでした。
ところが、小池新知事の下で何かを変えられるという幻想は急速に萎みつつあります。大成建設などオリンピック再開発の元請け企業との関係でも利権構造が深く埋め込まれており、これを変えることは容易でないことがわかってきたからです。ただし、これまで見えない所にいた森喜朗が事態の中心にいる構造は明らかになっています。今後、オリンピック招致委員会の裏金問題も解明が進むことが期待されます。
招致プレゼンでは「おもてなし」が強調されました。当時から「おもて(表)なし」、そのこころは「裏ばかり」と言われてはいましたが、これほど次々と「裏」が暴露されるとは思っていませんでした。
福島原発事故による汚染を「アンダー・コントロール」という世紀の大ウソでごまかし招致に成功したのが東京五輪です。福島だけでなく、東日本大震災の被災地の復興は遅々として進んでいません。東京五輪の招致によって、被災地の復興よりも東京の再開発が優先されたため、資材が高騰し、労働力も東京に吸収されているからです。
東京五輪を「復興五輪」と称するのは、「戦争」を「平和」と言いくるめる安倍政権の言葉の使い方と同根です。「復興五輪」の現実は、「復興妨害五輪」にほかなりません。
クーベルタンの思想に宿る戦争、優生思想、レイシズム
かつてあれだけ喧伝された「参加することに意義がある」というクーベルタンの言葉は、最近さっぱり聞かれなくなりました。オリンピックはそもそもの最初から、戦争、優生思想、レイシズムと深く関係していました。
「五輪が平和を促進する」という信仰は歴史的事実に反しています。近代オリンピックが始まって十数年後に第一次世界大戦が起きています。現在の日本ではオリンピックによって戦争が準備されています。近代五輪の創始者であるクーベルタンの思想自体に、ナショナリズムや排外主義が大きな影を落としています。
クーベルタンが生まれ育った19世紀後半のフランスは、英・独という隣国に戦争で負けたことに強いコンプレック
スを抱いていました。ワーテルローにおけるナポレオン指揮下フランス軍の敗北(1815年)、そして普仏戦争での敗北(1870年)です。
当時フランスの教育制度には体育という科目がなく、それが兵士の育成に遅れを取った理由と考えられたのです。ワーテルローについて「フランスはイートン校(英国)の運動場で破れた」と言われたほどです。
しかしフランスには、「イギリスやドイツの真似などしたくない」というタイプのナショナリズムも根強くありました。そこでクーベルタンは、当時盛んに強調されたギリシャ至上主義や国民間競争のイデオロギーを介して、スポーツ文化をフランスに導入しようと考えたのです。
19世紀のヨーロッパでは、ギリシャ人は本質的に優秀な民族であり、ギリシャ文明がヨーロッパ文明の起源であり、したがって白人文明は他の文明に優越しているという観念が、植民地支配の拡大とともに広がっていました。近代オリンピックもこの土壌から生まれたのです。
1912年にクーベルタンは、次のように書き残しています。「スポーツは植民地化に知的かつ効果的な役割を果たしうる。(中略)スポーツは規律化の道具であり、衛生、清潔、秩序、自己管理など、あらゆる種類の優良な社会的性質を生み出す。原住民も(略)これらの性質を身につければ、(略)扱いやすくなるのではないだろうか?」
この言葉は、植民地支配の正当性を前提にしつつ、武断統治に代えて文化統治を主張しているに過ぎません。クーベルタンの「平和思想」とはこの程度のものであり、現在の五輪思想もその延長上にあります。
晩年のクーベルタンは、1936年のナチス・ドイツによるベルリン五輪を手放しで称賛しています。このとき親ナチ派のIOC委員だったブランデージは、1968年、メキシコ五輪開催時にはIOC会長でした。
「ブラック・パワー・サリュート」(メキシコ五輪200M走で一位と三位になったアフリカ系アメリカ人のアスリートたちが、表彰式で、黒手袋をはめた拳を高く掲げて黒人差別に抗議した示威行為)は、この人物からメダルを受け取ることを拒否する意思表示でもありました(山本敦久「アスリートたちの反オリンピック」、小笠原博毅。山本敦久編『反東京オリンピック宣言』)。
このように、オリンピックはファシストによって単に利用されてきたのではなく、ファシズムと同根の思想を最初から持っていたことは明らかなのです。 (続く)