天皇生前退位 天皇制の根源的不条理について今こそ議論を!

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補論 天皇の二重性をめぐって

 杉村 昌昭
 以下の小論は私が某出版社から出す予定になっていた天皇制に関するインタビューの「補論」として執筆したものだが、この企画が現在中断しているため、ここに公表することにした。(杉村)
 天皇アキヒトのテレビを通しての「生前退位宣言」をめぐって天皇制をめぐる新たな議論がでてきたのでインタビューを補足する原稿を書いてほしい、というのが編者からの要請である。しかし、マスコミ世論としてはともかく、この「生前退位宣言」で天皇制をめぐる問題に大きな変化が生じたとは私には思われない。
 端的に言うなら、「生前退位」をめぐるほとんどすべての議論が、根本的に天皇制の存続を前提としたものであり、憲法第一条の「日本国と国民統合の象徴」としての天皇規定の問題性をあらかじめ排除したところに成り立っているからである。戦後天皇制の最大の問題は、この「天皇は日本国と国民統合の象徴である」という規定にしぼられるのであり、このことの持つ意味を度外視しては、いかなる天皇制論議も無意味なのである。   
 この規定は、天皇は「生身の人間ではない」という規定である。「日本国の象徴であり国民統合の象徴である」(条文ではご丁寧に二度も「象徴」という言葉が使われている)などという存在が、歌や旗ならいざ知らず(ちなみに世界には歌や旗を国家や国民統合の「象徴」として規定している憲法もある)、「生身の人間」でありうるはずがない。しかし、にもかかわらず天皇は生物学的には「生身の人間」であることを誰も否定することはできないわけだから、この規定そのものが根本的な「人間学的」自己矛盾を孕んだものなのである。
 インタビューのなかでも述べたように、天皇という存在は「生物学的存在」としては「人間」であるが、「社会的存在」としては「非人間」であるという得体の知れないフィクションにほかならない。そしてこのフィクションのなかに天皇(制度)をめぐるすべての問題が集約されているのであり、今回の「生前退位」の問題にしても、このフィクションとしての天皇(制度)をいかに解きほぐすかが問われているのである。
 憲法第一条の天皇規定は一種の形而上学(観念論)であることに目を向けなくてはならない。人間の個人競争を出発点・終結点と見なす新自由主義の哲学が個人を「社会的共同性」に先立つ「先験的」な存在とみなす「個人主体の形而上学」に依拠したものであるとするなら、ひとりの人間を「社会的非人間」にまつりあげる「天皇規定」は「社会的形而上学」であると言わねばならない。ここに「新自由主義社会」と「天皇制社会」が原理的に根本的矛盾を孕みながらも合流するというイデオロギー的同一性を見なくてはならない。それは天皇を普通の人間のような「個人主体」(新自由主義のイデオロギー的基盤)ではなく個人を統合した「社会的主体」(社会的共同体としての国家のイデオロギー的基盤)であると位置づける「二重主体の形而上学」であり、それが現在も新自由主義と国家主義の矛盾を統合する見えざる力(安倍自民党政権を支える民衆的原動力)として機能しているということである。天皇の超越性(共同的社会からの)と内在性(人々の心の中への)という二重性も、社会的・個人的に広く行き渡ったこの「二重主体の形而上学」に由来する。
 そして、この超越性と内在性の結合が社会的次元と個人的次元の双方にわたる複合的支配装置として歴史的に機能してきたのであり、この「天皇観念」はなおまったく払拭されていない。言い換えるなら、人々のあいだに深く浸透したこの「二重主体の形而上学」によって天皇(制度)は日本社会を動かす潜在的力を保ち続けているということである。

「社会的非人間」としての天皇の問題性

 しばらく前に話題になったことだが、天皇アキヒトが「反戦平和」の意志を表明して安倍晋三の「好戦的姿勢」に異を唱えていて素晴らしいなどというリベラル左派までが加担した妄言の出所も、この「生物学的人間」と「社会的非人間」という、二重性を孕んだ天皇の「絶対矛盾の自己同一」とでも言うべきフィクションに足をすくわれている議論である。つまり、天皇が「天皇制度」の支柱として機能し続けているのは、天皇が「社会的非人間」だからであり、「生物学的人間」としての天皇は「社会的非人間」としての天皇に従属した存在にすぎないということ、憲法第一条の規定はそう読み取るべき(そうとしか読み取れない)ものであり、実際に天皇はそのような一種の「形而上学的信仰」として多くの日本人の心の中に住み着いているのである。
 これを逆に「社会的非人間」としての天皇を「生物学的人間」としての天皇に従属するものと錯覚すると、上記のような妄言がでてくるのである。しかもこの迷言は、戦前天皇制における天皇ヒロヒトの存在の仕方と類比すると(「戦前憲法」では天皇の中で「生物学的人間」と「社会的非人間」が一体化していた=「天皇の存在は絶対不可侵である」)、危険きわまりない内容を孕んでいるとも言えるだろう。
 「生前退位」の意志表明の理由とされたのは「公務」の過剰に耐えられなくなったということのようだが、これはそもそも憲法における天皇規定上「国事行為」(これが「社会的非人間」としての象徴行為である)以外はしなくてもいいものを、宮内庁や内閣と相談の上であろうが、「生身の人間」(「生物学的人間」)としての活動を自業自得的にやたらと増やしたためだろう。被災地やイベント会場あるいは戦没者の慰霊の旅など、あれだけあちこちを飛び回って、しかもいつも笑顔をふりまき、儀式では厳粛な面持ちで「お言葉」を述べたりしていたら、それは疲れるだろう。まさに「社会的非人間」としての活動を「生物学的人間」として行なうという自己矛盾による疲労だと言わねばならない。しかも、宮内庁や一部の「識者」は、天皇が「社会的非人間」であることを重視しているのかどうかは知らないが、こういった「公務」は減らすわけにはいかないと言っているらしい。
 じつに天皇制をめぐるすべての問題は、「社会的非人間性」と「生物学的人間性」の共存という、「社会的形而上学」と「個人主体の形而上学」による天皇の存在論的二重規定(「ダブルバインド」と言ってもいい)に由来するのである。
 さて、この天皇という存在様式の二重性のもたらす諸問題を解決するには、一言で言うなら天皇を「社会的非人間」から「生物学的人間」に戻してやればいいだけのことである。つまり、天皇制というフクションを解体して天皇を「普通の人間」に戻すこと、これこそが人間学的にも社会学的にもあたりまえの唯一の解決法である。「二重主体の形而上学」と憲法を含む社会的諸制度によって人々の心のなかに偽造的に移植された「天皇観念」を払拭するには、それしかあるまい。
 そしてそれはわれわれが新自由主義社会のイデオロギーとしての「個人主体の形而上学」から解き放たれ、日本社会が新たな共同的社会(共和制)への展望に向かって一歩踏み出すことにも通じるだろう。個人が「先験的主体」として社会を構成するのではなく、「社会的共同性」こそが「先験的主体」であり、個人は人間の本源的な相互依存性(人間はひとりでは生きられないということ)に立脚した「共同的社会」を前提にしてしか成り立たない概念であること、そしてそのような「共同的社会」は「社会的非人間」などという超越的存在を虚構する必要はないということ、こういう既成概念を破壊した認識の確立から出発することが、迂遠な道かもしれないが天皇制を名実ともに廃棄する第一歩となるだろう。
 アキヒト天皇の「生前退位」の意志表明が取り沙汰されているこの機会にこそ、この天皇という存在の観念的二重性、そしてそこから抽出しうる天皇制の根元的不条理の問題を徹底的に議論しなくてはならない。

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