痛い思いは誰しもしたくないが、痛い思いをするからこそ、わかることもある。たとえば頭痛がするというとき、そこにはストレスだったり、低気圧だったり、いろいろ理由はあるのだろうけれど、理由はともかく「休め」というサインだと受けとめて、痛みをおもてなしして、帰っていただくほかないと私は思っている。それをただ薬で抑え込んでいたりすると、受けとめられないサインは、やがてもっと大きなかたちで出されてくるように思う。鈍痛はやり過ごせるが、激痛になるとやり過ごせない。でも、人間は賢くないので、激痛になって、ようやくわかるということもあるのだろう▼いま、この社会の痛みは、いろんなかたちで現れている。たとえば虐待だったり、暴力事件だったり、痛みは暴力性を持つ。その暴力に傷つく人もいる。だから、それ自体を許容することはできない(身体の痛みでも同じだ)。でも、それが生み出される背景を見ずに、ただ「薬」で抑え込んでも、それはやがて、もっと大きなかたちで出てこざるを得ないだろう▼私たちは、ついつい問題を潜在化させることによって現状を維持しようとしてしまうが、問題が痛みとして顕在化することで、はじめて現状を根本的に問い直し、それを変えていこうとすることができる。だから、痛みには希望がある。 (K)