【戦後71年】背負い難き「責任」を問う ~「私は貝になりたい」をめぐって戦争責任を考える
会社員・龍谷大学院生 片岡 英子
前回の記事では、1959年に放送された映画「私は貝になりたい」で表象されたBC級戦犯像について触れた。BC級戦犯はこの映画で、「上官命令によって行なった軽微な行為を理不尽な裁判で裁かれて死刑になったあわれな犠牲者」として描かれていた。当時の認識として、こうしたBC級戦犯像は珍しいものではなかったと思われる。それは、1952年頃に行なわれたBC級戦犯の戦犯釈放運動などが全国的に展開し、「国民運動」の様相を呈していたことなどから窺える。しかし、BC級戦犯を「犠牲者」として表象した作品ばかりではない。今回は、花田清輝という人物が書いた戯曲「私は貝になった」に着目してみたい。
花田清輝は、戦前から戦後にかけて小説や文芸評論などを書いていた人物である。吉本隆明と戦争責任問題について論争した人物として記憶している人も多いだろう。花田の文章は、その独特なレトリックと感性ゆえに、なかなか真意の掴みづらい文章が多い。悲壮感溢れる映画「私は貝になりたい」のパロディとも言える「私は貝になった」もまた、花田の独創性にあふれる戯曲のひとつであると言えるだろう。
この作品はその名の通り、死刑になった男が貝に生まれ変わった後の物語である。貝は貝でもアサリに生まれ変わった男は、「なんだっておみおつけの具なんかに…」と愚痴りながら、最終的にはタコに捕食されて貝としての人生(貝生?)を閉じるのであるが、男はその後も「柳」や「石」に生まれ変わっていく。その度により良いと思われる生への生まれ変わりを切望する男は、最終的に河原の石ころに生まれ変わり、人間の男の子に川に向かって投げられる。その際、すべてを悟って次のように叫ぶ。
―「こんどは、わたしは、ちっぽけな、すべすべした、河原の石に生れかわっていました。…もう人間なんかちっともこわくない。…ああ!わたしは自由だ!」
そして物語は、ナレータによる「スピノザは言った。『石にもし意識があったなら、落ちる以外に、石にはなんにもできないというこが、誰の眼にもあきらかであるにもかかわらず、石自身はあくまで自由に、地上にむかって落ちつつあると信じきっているであろう』と」という言葉によって締めくくられる。
私は一読者として、この珍妙な物語を映画「私は貝になりたい」で悲劇的に美化された被害者性を嘲笑するようなものとして捉えたが、この物語だけでは花田の真意は掴みづらい。次に、考察の手がかりとして1948年の文章「罪と罰」にも目を配ってみよう。
―「積極的に戦争を支持していなかったにせよ、あるいはまた、ひそかに戦争にたいして消極的抵抗をつづけていたにせよ、とにかく、ほとんどわれわれ大部分のものの位置は、すべて、白と黒とのあいだにある、灰いろの無限の系列のどこかにみいだされる。おそらくダンテなら、今日のドイツや日本の一般の人民を、かれのいわゆる『心おくれ、大事をあやまった人びと』として、地獄のどの環にもいれず、環外の獄にとどめておくにちがいない。かれらには罪はあるが、かくべつ罰せられはしない。しかし、罰せられないということが、かれらの罪なのだ」。
花田はここで、罪を問われていない人、そして罪を問われた人、双方に罪があることを主張している。こうした思想の持ち主が綴った「私は貝になった」は、BC級戦犯を「被害者」という一面的な理解のもとで表象したものとは一線を画するものだとは言えないだろうか。一般的にBC級戦犯を「被害者」とみなす傾向にあった当時からすれば、花田の視点は特筆すべきものがあるだろう。
また他方で、BC級戦犯を「被害者」と表象することは、戦争責任問題にとどまらない重要な問題点がある。前回から取り上げている「私は貝になりたい」は、とあるBC級戦犯が書いた手記がもととなっているが、実はこの手記の作者は死刑にはならなかった。
作者は加藤哲太郎という人物であり、映画で使用された「私は貝になりたい」という文章は、「赤木曹長」という架空の人物の遺書として記されている。「赤木曹長」の遺書は、戦争責任意識などなく、戦争に巻き込まれた一被害者としての自意識が強烈に反映されたものとして見て取れる。しかし、加藤は「赤木曹長」として被害者意識を綴りながらも、自分自身の言葉として次のように手記を結ぶ。
―「戦争だから、戦争の要求にしたがって行動したという自己弁護はなりたたぬであろう。その戦争に参加し協力したという根本的な事由によって、彼の道徳的責任そのものが追求されるかもしれない。人間のモラルは早晩、その段階に到達するであろうし、また当然、到達しなければならない」。
ここに、BC級戦犯として死刑を求刑されながらも罪を自覚する加藤自身の姿が垣間見えるだろう。「赤木曹長」が語ったような無責任ともとれる悲劇的な言葉もまた、加藤の言葉であることは間違いない。しかし、こうした思索もまた看過できないものである。ここからは、被害者でありながらも加害者でもあるという苦しみを感じ取ることができる。被害と加害の狭間に苦悩する手記は、加藤以外のBC級戦犯のそれにも見ることができる。
こうした苦悶に満ちた手記に出会う時、私は彼ら戦犯を「被害者」としてしか見てこなかったことだけでなく、戦争責任を自覚してきた人物や抵抗してきた人物のみを称賛して戦争責任追及に勤しんできた戦後日本の精神情況に不安を覚える。加害者意識の希薄さが問題であるということは、言うまでもない。しかしまた一方で、私たちは戦争責任追及をすることによって、自分自身の立場が「反戦・反核・反ファシズム」といったリベラルな立場に安住することを許してこなかったか。敗戦から70年以上が経過した現在、私たち「日本人」はアジア諸国の「被害者」への応答に迫られている。
しかしそれだけでなく、私たちは「加害者」である人びとの呻吟にもきちんと向き合ってきたのだろうか。「被害者」意識に強く規定されながらも、それでも「加害」の事実に向き合わざるをえなかった人や、忘れ去ることができずに苦しみ続けた人、そして生涯その「加害」に向き合い続けた人。そうした人びとが記した言葉は、「抵抗」や「闘争」を求める主体性からは物足りないものかもしれない。しかし、そこに私は期待を寄せたい。
その苦しみの中には、究極の選択を迫られた時の判断のあり方、組織の中での身の振り方など、BC級戦犯の置かれた具体的な状況が鮮明に刻印されている。それは困難な状況であったり、現代社会にもあるようなありふれた状況であったりさまざまである。その中で行なわれた選択の可否について、BC級戦犯の苦しみとともに徹底的に考察するところから、私は始めたいと考えている。