被害者意識の日本人と戦後保守が織りなしてきた日本の戦後史
李 達富
日本の対中侵略戦争、対米戦争(太平洋戦争)に、兵士あるいは軍属として動員された朝鮮人は50万人を超える。彼ら以外に、従軍慰安婦として戦地に送られた女性は10万人を超える。
日本軍下の捕虜収容所における米・英・蘭兵捕虜の多くが衰弱死したことからも分かるように、劣悪を極めたものだった。その捕虜収容所で管理を行ったのは、日本の植民地であった朝鮮、台湾から軍属徴用された朝鮮人、台湾人であった。日本人兵士、軍属の何人かは日本敗戦後、アジア各地で行われた戦犯裁判において捕虜虐待の廉で有罪とされ、絞死刑の判決を受け刑場の露として消えた(BC級戦犯)。その数は「東京裁判」で侵略戦争の責任者として有罪判決を受け、絞死刑を執行された戦争指導者(A級戦犯)の数より多い。映画「戦場にかける橋」で有名な泰緬鉄道関係だけでも、9人の朝鮮人軍属が死刑判決を受けた。
日本を含め、アジア全体で2千万を超える犠牲者を生んだ侵略戦争を引き起こした責任で刑場の露と消えたA級戦犯より、捕虜虐待で絞死刑の執行をされたBC級戦犯の数の方が多い。そのうちの何人かは植民地朝鮮から徴用された朝鮮人であるという事実は、戦争責任・戦争犯罪を考える上で、無視できない歴史的事実である。
戦争責任を問われるのは、侵略した国家の側である。被侵略国に相手国への挑発の事実がない限り、侵略された側の戦争責任を問えないことは事の道理である。日中戦争では中国側には、日本への挑発行為はなかった。対米戦争ではアメリカの対中国支援、日本への石油禁輸等、日本側に抗弁の材料はあるが、真珠湾への奇襲攻撃によって、戦端を開いたのは日本だ。対米戦争において日本側にも言い分があることは、日本人の戦争責任に対する向き合い方に影響を与える。
戦争責任をアピールした戦後ドイツ
しかし、侵略した側の国家の兵士が戦争に従軍した場合、「その兵士に戦争責任が生じる」と考えるかは、従軍した兵士本人がその戦争の本質を知っていたか、などの個人的レベルに関わる良心の問題が存在する。なぜなら、国家の命令で戦争に行き、戦闘に従事すること自体は、本来は個人の責任を問えることではないからだ。
戦闘行為で人を殺した、従軍慰安婦の人権を否定した、等の行為を悔いるのは、その人の良心の問題だ。つまり、戦争責任を問える相手は国家に対してであり、当該国民は国家の戦争責任を全うさせるためにどう行動したか、が問われるのである。
一方、戦闘過程で生じた相手方への虐殺・残虐行為は「戦争責任」ではなく、「戦争犯罪」として告発することができる。ここでも戦争犯罪が戦争責任と絡めて第一義的に問われるのは、戦争を起こした側だ。ベルリン陥落の際、赤軍がドイツ人女性を凌辱したことや、関東軍兵士60万人を長期に渡ってシベリアに抑留、強制労働させたことは戦争犯罪や戦争責任のカテゴリーでは語らない、といった理不尽が戦争にはある。戦勝者の権利を人間社会は正当なものとして容認している。
しかし、侵略や戦争犯罪を行ったという認識が当事者に希薄な場合、あるいはそのような歴史認識を持たない国民に、戦争責任の意識は生じにくい。日本の為政者が戦後、一貫して行ってきたことは植民地支配、侵略戦争の歴史認識を自己都合に合わせることであった。その姿勢からは戦争責任の意識は見られない。
サンフランシスコ講和条約締結(1952年)後、日本軍兵士・軍属として徴用された朝鮮人や台湾人は同条約を機に日本の国籍を失った。そのため、彼らは軍人恩給を受ける資格を喪失した。こうして日本政府は当時の限りある財源を朝鮮人、台湾人に使うことを「ケチった」のだ。
戦争による障害年金を受給できない元日本兵の朝鮮人は、白装束の傷痍軍人として民家をまわり、広場で人々にお金を求める光景が1960年代まで見られた。当時、その傷痍軍人を見て私は、彼らは日本人だと思っていた。
戦後、日本に復員した兵士、植民地の満州・朝鮮から命からがら逃げるようにして日本に帰った日本人は合わせて600万人を超える。日本兵の戦死者の半分以上が餓死によるものだった。日本兵は侵略戦争の犠牲者の側面をもち、侵略者として意識した人は少数派であろう。食糧不足、軍隊内での「しごき」の体験は、自分たちを戦争被害者として表象することを可能にする。
空襲によって焼け出された人は、自分を戦争の被害者として意識する。こういう被害者意識は戦争責任を主体的に受け止めることをむつかしくする。自分たちが支配した朝鮮人、中国人に対しては蔑視感情が強く、「悪いことをした」という意識も育ちにくい。体験心理的に、被害者意識をもった日本人と戦争責任の追求を政策的に優先しない戦後の保守政権が織りなす日本の戦後史は、非ナチ化を政策的に追求して明確に戦争責任をアピールした戦後ドイツの歩みとは異なる。
侵略・植民地支配の反省の不十分さが錯覚させる安倍反動政治の「正当性」
日本人の戦争責任の意識は、戦後民主主義とともに生まれる。安倍首相が戦後民主主義を嫌うのは、侵略戦争の記憶、戦争責任の意識と強く結びついた民主主義だからである。
被爆体験を戦争被害の象徴として表象し、日本を第2次世界大戦の犠牲国(侵略の事実を焦点からずらす表象の仕方)であるかのような仮象を生み出すことによって戦争責任を相対化し、「戦争をすることのできる国づくり」のために憲法を改正する策動は、安倍政治のなかでは繋がっているのだ。
今夏、オバマの広島訪問は、安倍首相の「戦後戦争責任の在り方」への総決算だった。オバマ大統領が被爆地・広島を訪問し、慰霊塔に献花したことは、米側に戦争責任を分担させる政治目的がある。
政治目的に自国の戦争被害を利用するこの姿勢は、隣国ポーランドに行き、アウシュビッツでの犠牲者の墓に献花し、涙を流したウイリー・ブラント前西独首相の態度とは全く反対である。ブラントのアウシュビッツ訪問は、安倍が南京へ行き、南京虐殺記念館の前で犠牲者に献花することに匹敵すると言えば、ここでも彼我の違い、差の大きさをイメージしやすい。
日本人がドイツ人に比べて生き方の道義において劣るのかどうかは、私にはわからない。しかし、私は学生時代の多感な時、ブラントがアウシュビッツの犠牲者の墓の前で涙を流す写真を見て、ブラントを立派な政治家だと思った。ブラントは戦時中、ナチスに対するレジスタンスであった。ブラントはアウシュビッツでドイツは過去に決して戻らないと世界中に発信したと思う。実際、その後の40年の歩みはそうだ。翻って日本はどうか。
隣国(韓国、中国、北朝鮮)とギクシャクしている方が、沖縄の米軍基地の存在を正当化しやすい、選挙民の半数を占める右派の票を選挙の際、あてにすることができる─等の日本独自の国内政治の事情が存在する。
北朝鮮の核開発は緊迫した危機感を醸成し、安倍首相のようなタカ派のリーダーシップを望ましいものと思わせる効果を持つ。このように、植民地支配、侵略戦争の反省の不十分さが韓国、中国との間で歴史問題を生み、そのことが両国との関係を不安定化し、そしてそのことが憲法改正を目指す安倍政治の正当性を担保するかのような倒錯を生んでいる。
日本の近現代の発展は、朝鮮・中国の犠牲の上に築かれた。そのことを想起すれば、歴史問題で両国に自己主張を繰り返す安倍首相たちの右派勢力が戦争できる国づくりのために憲法改正に熱心なことが、いかに歴史の歩みに逆行する反動であるかがわかる。
先進民主主義国で右派ではなく、反動勢力が国を統治している例は、第2次世界大戦終結後、他には存在しない。