狂ってきたこの世は騒がしいぜ!
浪花の歌う巨人 趙 博
今回のタイトルは、反戦・反原発ソングを集めたCDアルバム『COVERS(カバーズ)』(1988年、キティレコード)に忌野清志郎が収めた「明日なき世界(Eve of Destruction)」4番の歌い出しである。同曲は「こんなとこからは逃げるに限る/一週間ほど宇宙旅行へ/でも戻ってくる場所はもとの故郷/進軍ラッパが闇の中に響く/潜水艦がジェット機が国を取り巻く」と続く。
相模原市で起きた重度障がい者虐殺、伊方原発再稼働、リオ五輪のバカ騒ぎ、天皇の生前退位発言、東京都知事選の大敗北、辺野古・高江での露骨な暴力と弾圧、北朝鮮の核実験、母親が生後5歳の我が子を風呂で窒息死させ(愛知)、姉が弟を殺して遺体を切り刻んだ(千葉)、築地市場移転問題…等々、毎日毎日連日連夜、種々様々な「事件」が多種多様に生起する。
9月初旬のNHKの世論調査では、安倍内閣の支持率は57%で不支持率は26%、政党別では自民党が40・2%、公明党4・3%だという。「参院選や都知事選の結果やアベノミクスの不透明感に失望するよりも、軍事・外交を最優先してきた安倍さんの政治手法に国民が期待を寄せていることの表れでしょうね」としたり顔で喋ったテレビ解説者の言に従えば、中国や北朝鮮からの「危機」が迫り、国内も不安な情勢にあるので「強い政治家」である安倍に支持が集まっている、ということだ。
「感じねぇかよ、この嫌な感じを/一度くらいはテレビで見ただろう」…清志郎の歌詞にケチを付けるつもりはないが「一度くらい」じゃない、毎日毎日連日連夜、見せつけられているのだ。「嫌な感じ」を感じないためには、テレビを見ないという方法しかない。しかし、それとて気休めだ。この国でファシストが多数派の支持を得ているという歴然たる現実は、厳然として、動じる気配すらない。因みに、民進党の支持率は8・3%、共産党2・5%、社民党0・4%、合計しても10・2%しかない。
奴等は俺がおかしいと言う…
明仁が生前退位を口にしたのは何故か? その「おことば」を巡って、識者のみならず、ワイワイと分析や憶測が飛び交った。『週刊金曜日』は9月2日号で「天皇と憲法」特集を組み、野中大樹、内田樹ら6人の論考やインタビューを掲載したが、「平成の人間宣言に青ざめた安倍首相」(野中)だの「改憲のハードルは天皇と米国だ」(内田)という文言に代表される如く、「安倍の改憲策動に対して、〈象徴〉という自らの立場性を徹底して対峙することで護憲の立場と主張を訴えた」のだ云々と、おしなべて「天皇のおことば」を肯定的に捉えている。
「体調がどうであれ、やることはやらんかい、死ぬまでやらんかい! それが天皇ぢゃ、コラ明仁! ごちゃごちゃ抜かすな、お前は象徴(シンボル)やないか! シンボルに人権なんかあるか!」…こう言うと「奴等に俺はおかしい」と言われるのがオチだ。「奴等は俺がおかしいと言う/でも本当のことは隠せやしねぇ/政治家はいつも誤魔化しばかり/法律で真実は隠せやしねぇ」…清志郎の言う通りじゃないか。
そもそも、日本国天皇が「物」ではなく「命ある生物」であり、従って「自然人」としての人格や個性があったとしても、彼は一個人としてこの世に生きているのではない。象徴という抽象的存在としてしか、この世界に明仁のレーゾン・デートル(存在理由)は一切存在しないのである。しかし彼とても、衣食住を日々の営為とし、思考し、発話し、性欲・食欲・睡眠欲を有し、小便も糞もする「ホモ・サピエンス」である。自らの「考えや思い」を吐露することもあるだろう。だが、それは「国民の総意に基づく」象徴の範囲を超えてはならないのだ。何故なら、日本国憲法は天皇と皇族の政治的権利を認めていないからである。よって、彼らに主権者としての選挙権はない。
「おことば」とその内容は、歴とした憲法違反である…のに「お労しい」「可哀想」「引退させてやれ」「天皇は平和主義者だ」「天皇が最も憲法を遵守している」と、リベラル派も左翼も言う。みんな心優しいんだね(笑)。明仁個人が、よしんば安倍を嫌っているとしても、仮に天皇が「国家元首になんかなるの嫌だ」と思っていたとしても、天皇に安倍を批判してもらい、ましてや改憲策動を潰してもらう必要など毛頭ない、断じてない。我々人民がファシストを打倒すべきなのだ! そして、付言しよう。天皇・明仁の境遇を思いやるのであれば、退位ではなく廃位こそが最高の処遇だと。
それじゃ世界中が死人の山さ…
今こそ、我々は中野重治の言葉を想起すべきである。「恥ずべき天皇制の頽廃から天皇を革命的に解放すること、そのことなしにどこに反封建制からの国民の革命的解放があろうか。/天皇制廃止は実践道徳の問題だ。天皇を鼻であしらうような人間がふえればふえるほど、天皇制が長生きするだろうことを考えてもらいたいのだ(『五勺の酒』より)。」
天皇の天皇制からの解放──このパラドキシカルなフレーズこそ「天皇制打倒!」の今日的原点であり、豊富化すべき思想と思索の内容だと断言しよう。今、第2の宮下太吉・難波大助・尹奉吉が出現すること、あるいは「21世紀の虹作戦」が決行されることなど夢想だにできない。あるいは、こう言い換えてみよう。日本革命という「目標」が修辞の域を出ないこの時代だからこそ「天皇の天皇制からの解放」を己に引きつけて徹底して考え抜くべきだ、と。
さて、相模原で重度障がい者19人を虐殺し、26人に傷害を負わせた犯人は「障害者が生きていくのは不幸。不幸を減らす為にやった」と逮捕後に語ったという。「狂ってきたこの世」にすっかり蔓延ってしまったインターネット上では「よくやった」「障害者は生きていても何の得にもならない」などという 〝応援メッセージ〟 が溢れ、この人非人は「英雄」に繰り上がった。いま敢えて「人非人」と罵倒したが、厳密に言うと彼は「人非人」ではなく、ましてや精神異常でも通り魔でもない、ごく「正常」な人間(=ホモ・サピエンス)だ。
犯人は、「狂ってきたこの世」の漠然とした(即ち、一瞬にして確信に変わる)思いを代弁したに過ぎない。「鉄砲担いで得意になって/それじゃ世界中が死人の山さ」…清志郎が歌で描いた風景はおそらく戦場のそれなのだろうが、白昼堂々、45人が殺傷される「狂ってきたこの世」こそ戦場そのものではないか!しかも、そこは「共犯」に支えられて「死人の山」を築く戦場(=日常社会)であることを忘れてはならない。
胎児に染色体異常があるかどうかを検出する「新型出生前診断(NIPT)」で陽性反応が出た346人の中、334人が中絶を選択、異常が判明した後も妊娠を継続したのは12人だったという結果が報道された(『毎日新聞』2016年3月25日)。2011年の統計でも、イギリスでは出生前診断でダウン症が判明した胎児の9割が中絶されたという。裁判でも然り。障がいを持った我が子を殺した親や介護に疲れ果てて身内を手に掛けた者は必ず「情状酌量」になる。つまり、我々自身が「生きるに値する・しない」命の選別をして良しとする常識を持ち合わせて、それが罷り通る社会を築いてきたではないか! この事実を凝視し、批判的に乗り越えて行く「沈思黙考」とそのための視座は、先述した57%に代表されるこの社会のマジョリティには存在しない、絶対に! 彼らは「犯人」を異常と断じて、彼の命を奪って事件を処理し、何事もなかったかのように佇むのであろう。
天皇に「個人」を見いだす感性は、障がい者を「可哀想・気の毒」と憐れむ常識にその基礎を有している。両者とも「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉」(教育勅語)するベクトルへと、すんなり移行する。なぜなら、清志郎の言う通り「ボタンが押されりゃそれで終わり」の状況にあって、人間らしい思いやりや助け合い、そう言ってよければ良心や博愛主義など色褪せて、その代わりに死刑と戦争が「抑止力」として浮上し、その説得力をどんどんと増すからだ。
「でもよ~!何度でも何度でもオイラに言ってくれよ/世界が破滅するなんて嘘だろう」…清志郎の叫びに支えられつつ、「反戦・平和・反貧困・反差別」の地平へと「何度でも何度でも」辿り着こうとする意志力を鍛えたい…息も絶え絶えになりながら、筆者はそう思う次第である。