彫刻家・金城実
そもそもオール沖縄は何故に生まれたのか? それは、沖縄人としての誇りからであろう。では、誇りとはこれほど力があるのか? それは、屈辱と被差別・抑圧の歴史をくぐったことのない奴には理解できない。いわば人間の尊厳が傷つけられる、その苦痛が理解できない奴は、右の耳から聞いて心にこの言葉が立ち止まって考えることができず、すぐに左の耳からすーっと抜けて、ただの空気になって地に落ちていくものである。
沖縄県知事の翁長雄志や国会議員の仲里利信は、2人とも沖縄自民党のトップにいた。いつ頃から彼らは自由民主党を抜けてオール沖縄へと突進したのであろうか。
翁長氏は、オスプレイ反対の建白書を持って安倍首相に会いにいったものの、あっさりと拒否された上に、その後の街頭デモで翁長一行は、「沖縄人死ね」「帰れ」「中国のスパイ野郎」などヘイトスピーチをあびて帰沖。直訴団の失望は大きく、プライドが傷つけられた翁長市長(当時)は、激しい怒りへと変わった。
変化は、稲嶺進の名護市長選挙の時点から始まっていた。私も選挙カーに乗って演説したが、ありありと目にした光景が印象に残っている。それは、保守の重鎮である仲里が、ひとりで車を運転しながら、必死に稲嶺の応援をしていたことだ。選挙応援者がびっくりしたものだ。当時、大阪から服部良一氏が応援に来ていて、2人とも仲里氏に直接会った。応援の理由については話し合っていないものの、熱の入れ方は半端じゃなかった。
翁長氏は当時那覇市長であったが、既に両氏のオール沖縄への決意は固まっていたようだ。さらに仲里の熱に油を投げ入れたのが、石破防衛大臣(当時)の発言であった。「500億円出すから島袋前市長によろしく」というもので、銭で沖縄の心を買おうとした大臣の発言に激怒したのが仲里氏であった。
彼は、沖縄戦の体験者であり、辺野古基地が未来の世代にどんな悲劇をもたらすか、その歴史を知っていたからであり、その体験と今の日本政府の沖縄に向ける目線に屈辱を覚えたのである。オール沖縄は、この2人によって大きく踏み込んだ闘いになっていく。つまり、オール沖縄は、かつての復帰運動の母体から生まれたのではなく、保守派(かつての自民党県連)から生まれたものであるといえる。
沖縄の革新団体の功績は忘れていないが、オール沖縄が生まれたことは、実に素晴らしいことであり、私も全面的に賛成である。今回の参議選で伊波洋一氏は、圧勝した。結果論としては文句がない。しかし沖縄経済界は一枚岩ではないので、隙を見せてはならないと思う。
県民大会が開かれた6月19日、5万6千人が参加した元米兵暴行殺人事件の追悼集会があって、私は当日の新聞社説の真下に、地位協定を見直すべき記事を掲載した。それは、米軍に本土でレイプされたジェーンともうひとり海老原鉄平による記事で、地位協定のカラクリを具体的に2人の事件に関わって書いた。
その立論にあって、事前に何とかジェーンをステージに立たせて、日米両政府を糾弾させるつもりでいた。ところが、拒否されて、私は頭に血がのぼり、大会実行委員会にジェーンを連れて押しかけたが議論にもならなかった。「なんで?」と聞いても、「これは沖縄のことだから、ウチナン人だけであると決まっているからダメ」というのだった。私は頭に来て怒鳴りつけて、ステージから離れた。
琉球ナショナリズムへの違和感
1週間前に、龍谷大学の松島泰勝氏と「琉球独立は可能か?」(解放出版社から11月に出版予定)というテーマで対談を行った。「琉球ナショナリズム」という松島氏の本も読み、さらに対談した後も、琉球ナショナリズムという概念に違和感が残った。
なぜなら、琉球独立運動にはウチナン人以外は入れないというものだからだ。それは違うだろうというのが、私の琉球独立論である。
対立軸をインターナショナリズムへ
辺野古に応援に来るヤマトン人に、「帰って自分の処でやれ」と叫んだ者たちがいることを、私は知っている。しかし、韓国の活動家・弁護士・学生らも辺野古に来ているのに、なぜヤマトン人に向けてだけ叫ぶのか? つまり、対立軸をウチナー対ヤマトに封じ込んでしまう、屈折した排外主義を見るのである。独立論もこれでは危ない。ウチナー対ヤマトの対立軸をインターナショナリズムに広げていくべきだ。
「沖縄の基地をヤマトに持っていけ!」、とヤマトの一部ウチナンチュが叫び、一部のインテリも同調する。
沖縄でいらないものは、ヤマトで不要である。私は、日本復帰直後に沖縄返還には何気ない不気味さを感じていた。それは、ヤマトの沖縄化になると思っていたからだ。彼らの考えは、まさにその道に入り込んでいく。
オール沖縄も琉球独立のこともインターナショナルでなければ、排外主義に足をすくわれる。そのことに気がついていますか?