「Zコミュニケーション・デイリー・コメンタリー」6月4日
ジュアン・コウル(ミシガン大学歴史学教授)
翻訳・脇浜義明
「俺は徴兵拒否者じゃない。国旗を焼いてないし、カナダへ逃れる奴隷でもない。俺はここに留まる。ムショに入れるって? いいとも、そうしてくれ。俺たちは400年間ムショ暮らしだったんだ。4、5年増えたって、どうってことはない。しかし、俺は1万マイルも離れたところへ行って、人殺しなんかしない。死ぬんだったら、ここで死ぬ。今すぐでもいい。お前たちと戦って死ぬんだ。敵は中国人でも、ベトコンでも、日本人でもない。お前たちだ。俺が自由を望むとき、それを拒否するお前たちだ。俺が公平を求めるとき、それを拒否するお前たちだ」─モハメッド・アリ
ベトナム戦争への参戦を拒否
モハメッド・アリ(元プロボクサー)が74歳で死んだ。1942年1月17日ケンタッキー州生まれで、元の名はカシアス・マーセラス・クレイ。
1960年、ローマ・オリンピックの米国選手団のメンバーで、ボクシング競技ではヘビー級優勝。帰国後に賞賛されたが、故郷のケンタッキー州ではレストランへの入店を拒否された。プロに転向、1964年にソニー・リストンに勝って世界チャンピオンになった。軽快なフットワーク、大言壮語に相手をからかうこと、さらに相手を「何ラウンドで倒す」と予言することで、有名なボクサーだ。
1964年、彼はすでにネーション・オブ・イスラムに入っていた。これはアフリカ系アメリカ人の民族主義セクトで、スンニ派イスラム教とは基本的に異なる民俗宗教(死後の世界を信じず、白人を悪魔化する)であった。
彼は「カシアス・クレイ」という名を「奴隷名」だとして捨て、モハメッド・アリと改名した。とたんに白人社会で人気が落ちた。彼は米国への忠誠の誓い宣言を拒否、「ベトコンには何の恨みもない」と、ベトナム戦争参戦を拒否したことで、67年チャンピオン・タイトルを剥奪された。そして5年の服役刑を宣告されたが、その判決は抗告審判において破棄された。
70年代、米国人民がベトナム反戦でやっとアリに追いついた。反戦運動の盛り上がりの中、彼はリング復帰を許された。再びタイトルを勝ち取り、一度負けたがリターンマッチで勝ち、二度返り咲いたのだ。56勝5敗、37KOという戦績。
40歳で引退し、その頃にはすでにパーキンソン病にかかっていた。彼はルイスビルにモハメッド・アリ・センターという非営利組織を設立、BBCの説明によると、「平和、社会的責任、他者への敬意を促進」するセンターである。
75年、アリは主流派スンニのムスリムになった。05年、ハズラト・イナーヤト・ハーンの影響を受け、神秘主義的スーフィズム(※注)を取り入れた。スフィ教徒として、アリはイスラムの原理主義的解釈をする強硬派サラフィー主義や暴力的過激主義を否定した。
過激派とイスラムの教えを区別せよ
去年12月、アリは声明を出したが、メディアはそれを「ドナルド・トランプのムスリム差別への反応」と伝えた。しかし、アリのスポークスパーソンは、間接的な意図を認めながら否定した。
「我々ムスリムは、イスラム教を個人的利益の追求に利用する者に反対しなければならない。私はムスリムだが、パリやサン・バーナディーノ、その他の地域で人々を殺害する事件とイスラム教とは何の関わりもない。真のムスリムは、『イスラム・ジハーディスト』の暴力がイスラム教の教義に反することを知っている」
「政治的指導者たちがイスラム教を正しく理解し、殺人者がイスラム教を歪めていることを人々に伝えるべきだ」
アリのスポークスパーソンは「暴徒によってイスラム教が歪められている」と非難した。アリは「好戦的なトランプと争うのではなく、全米の政治家たちに、誤った過激派とイスラムの教えとを区別せよ」と呼びかけたのだ。
アリは、イスラムの教えは人類を愛で結びつけるものとみている。「敵を叩きのめす」と大言壮語していた男が、今や子どもじみた喧嘩に応じないで、博愛を説いているのだ。
トランプが白人至上主義者で、米国を63年のような、黒人差別の国に戻そうとしていることは明らかだ。言い換えると、トランプはアリが築きあげてきた遺産を消し去りたいのである。
※注:1914年にハズラト・イナーヤト・ハーンが西洋で立ち上げたスーフイズム教団で、修業によって己を捨てて神との合一に至るとする、精神主義的教え。