書き手:浪花の歌う巨人 趙博
「押し込み強盗」は、狙いを付けた大店に女中や番頭などとして「引き込み役(スパイ)」を送り込み、土蔵の鍵やその管理方法、はたまた金の貯え方などの詳細を、時には数年にも亘る時間をかけて入念に情報収集した後に「強盗」を実行する。これに擬えれば、2012年12月に再び政権の座についた安倍・自民党が「押し込み強盗」なら、まんまと政権交代劇を終焉させた野田・民主党は「引き込み役」だ。その結果、安倍政権は今、民衆の災難と不幸に乗じて国民統合をさらに強化し、虎視眈々と戦争国家への次なるステップを画策する「火事場泥棒」と化している。
なぜ激甚災害ではないのか?
「激甚災害」とは、地震や風雨などによる著しい災害のうち、被災地域や被災者に助成や財政援助を特に必要とする災害で、『激甚災害法(1962年)』に基づいて政令で指定される。指定には、全国規模と市町村単位の2種類があるが、中央防災会議が定めた「激甚災害指定(本激)基準」「局地激甚災害指定(局激)基準」に基づいていずれかが判断される。激甚災害に指定されると「災害復旧事業」補助金の上積みがなされるが、90年、同法が改正されて基準の大幅な引き下げが行われた。それ以降、94年「三陸はるか沖地震」、95年「阪神・淡路大震災」、98年「台風5〜9号による暴風雨災害」、2004年「新潟県中越地震」、07年「台風5号による暴風雨災害」、11年「東日本大震災」が、激甚災害(本激)に指定されている。
そして、今回の「熊本地震」である。震度7や震度6強、マグニチュード7クラスの大地震が続けて起こり、震度4〜5の余震で眠れぬ夜を過ごす被災者、10万人に垂んとする避難生活者にとって、「大震災級の事態ではない」「激甚災害ではない」という政府の言辞はどのように響くだろうか? 統計によると、震度1以上の地震は820回を越えているという。これほどの大規模な地震を「激甚災害」指定しないということは、「被災者の救援、生活再建に政府は何ら関与しない」という宣言に他ならない。「3・11フクシマ」同様、日本国政府は責任のセの字も持ち合わせていない。なぜ今回は「激甚災害」ではないのか? それは、安倍の主観が決めること・・・冷酷で残酷な輩どもがこの国を牛耳っている。
川内原発を止めろ!
これ見よがしに「オスプレイ」を飛ばして、「救援活動している」とひけらかす。自衛隊の救助・復旧作業をことさら強調して報道する…素人目にもあからさまな「軍事オタク趣味」だ。「災害に際しても軍事力がものを言う。「だから憲法9条は改正した方が良い」と安倍は言いたいのだ。しかし、己の主張をアピールするのにその程度の知恵しかないということを自ら暴露した、とも言えるが。
日々の地震報道で、鹿児島の震度についての詳細が意図的に抜け落ちていることも、明々白々だ。川内原発の再稼働を正当化するために「何の問題もない」と言い続ける。福島第一原発事故はもう過去のことで、安全基準を満たしているから「大丈夫」なのだと・・・。
広島と長崎、二度原爆が投下されて大日本帝国は崩壊した。これに擬えるならば、フクシマ級の原発事故がもう一度起きれば、日本国は崩壊するのだろう。しかし、そうなれば「国」どころの騒ぎではない。人類の滅亡にいたる道が開けるだけだ。
「川内原発をとめろ」「伊方を再稼働させるな」—この叫びは、もはや「反原発」という運動的地平を越えた、理性と良心を有する人間の祈りなのだ。『チェルノブイリの祈り』ならぬ『熊本の祈り』だ。故に、安倍を葬り去ることは、天地神明に誓われた正義である!