原発さよなら四国ネットワーク 酒肆 和子
3.11愛媛 5年目の3月11日がきた。この直前の3月9日、大津地裁が高浜原発3号機の運転差し止めの仮処分決定。なんと、稼働中だった原子炉が止まった。その少し前、2月の終わりに再稼働したばかりの4号機が、トラブルで緊急停止したままになっていた。
その2つの原子炉は、1年前に運転禁止命令が出されたが、中央から送り込まれた司法官僚によって覆され、再稼働された因縁の原子炉だ。あきらめず訴え続けてきたことが、裁判所に届いたの?-そんなふうに思える朝だった。
10時過ぎの伊方原発ゲート前。1月11日に行ったとき、工事用車両がひっきりなしに出入りして、何か工事を進めているように見えた。そのときは警察までやってきて緊張したが、今日は代わりに、ゲートの守衛さんたちが「工事車両通ります、道をあけてください」と声をからしている。
しかし、いったい何の資材を運び込み、何を運び出しているのか? この頻度はおかしくないか? 2度目に見た開放ゲート前では、そう思えた。
この日の行動にはおよそ30人ほど集まり、熱いアピールを展開した。東京から駆けつけてくださった、「プラント技術者の会」の方。モノは壊れ、人間は間違う。紛れもない真実だ。そして、政治を変えようと市議に立候補する県内の若い人たちの情熱がすごい。
死に体な安倍首相の人形を操る人形師。そして、子どもたちの甲状腺ガンのこと。もちろん、合間には、各地から集まったミュージシャン&げんさよ楽団の気合のこもった歌が飛び交っていたことは、いうまでもない。
最後は、それぞれの思いをこめ、海に向かってコールし、ゲート前集会は終了した。夕方は、「伊方原発をとめる会」の松山集会がある。なかなかのハードワークだが、この日のげんさよ楽団に休みはなかった。
ふるさとは原発をゆるさない
午後5時半。松山集会でのオープニングでは、愛媛合唱団に続いて、げんさよ楽団も演奏させてもらった。大分の池田さんが作詞作曲した名曲「ふるさとは原発を許さない」。この歌ははじめ、「ふるさとは原発を望まない」だったが、現場で歌い継がれ、「許さない」にかわっていった。ほか、「ずっと嘘だった」(斉藤和義氏が「ずっと好きだった」を震災直後にセルフカバーした)を少し。
集会では、福島県・南相馬市から愛媛へ移住されている渡部さんの発言があった。福島第一原発から12キロ、先祖代々の土地で専業農家を営んでいたが、避難を余儀なくされた。渡部さんは、5年後のこの日、震災関連死について触れ、「原発事故で避難が長期化し、将来の生活が見通せないことが、心身に悪影響を与えているのではないか」と見られていることを話していた。
同じ日、『人の痛み この震災を転換点に: 東日本大震災から5年、愛媛に避難した私たちの声』(東日本大震災愛媛県内被災者連絡会代表・渡部さん)という文集が出版された。
原発さよなら四国ネットワークからは大野さんが発言。「放射能から避難したりしない。放射能には出ないでもらいましょう」と呼びかける。その通りだ。事故を想定した避難訓練、どこかおかしくないか? 事故は起こる、だから再稼働しない、誰も逃げない。それでいい。原発は一刻も早く廃炉に向かって歩き出すべきだ。集会参加者は300人。そして、みんなは廃炉へ向かうデモに出発した。
デモコースの終点は県庁前だった。そこでは、一日も休まず続いている金曜行動のグループが、県庁前を死守していた。これに参加しないと今日一日が終わらない。こうして、一日中どこかで太鼓をたたき、どこかでしゃべり、歌って、日が暮れていた。次の土曜日、19日には、県職主催の集会もある。雨天決行参加必至だ。