阪南大学経済学部准教授 下地 真樹
最近、「憲法9条を改正すべきだ」という意見を聞くことが増えました。こういうことを言う保守政治家は以前からいましたが、いわゆる「リベラル」を標榜する人たちからもこうした意見が聞かれるようになったのは、新しい傾向です。いろいろ思うことがありますので、述べてみたいと思います。
理想が現実と違うのは当たり前
「憲法9条を改正すべき」とする根拠として言われることは、要するに「憲法9条は現実に合わない」というものです。たとえば、「武力がなければ国を守れない」「既に自衛隊が存在している」「こうした現実と憲法9条が矛盾しているから変えるべき」という主張です。しかし、これはそもそも改憲の理由にならない。
誤解を恐れずに言えば、そもそも憲法は現実と矛盾するためにあります。たとえば、この国で、現実に生存権が保障されていません。だから、「生存権を保障しろ」「憲法に合わせて現実の方を変えろ」と言います。そのためにこそ憲法はあります。「現実に合わない」は、憲法を変える理由にはなりません。
そもそも、憲法が現実を作るのではありません。現実を作るのは、私たちの「不断の努力」です。憲法は、その努力を方向づけるわけです。「理想と現実は違う」、そのとおりです。だから、自衛隊もあるし、その存在は一定の支持も受けているのでしょう。しかし、自衛隊の役割を徐々にでも減らしていけるような方法を考える。軍隊を持っている他の国に対しても呼びかける。少なくとも遠い将来に向けて、戦争のない世界、軍事力によらない平和を作るために、私たちの「不断の努力」を方向づける。そのために憲法があるわけです。
もし、憲法9条を変えてしまえば、そもそもこんな努力はする必要がなくなります。それこそ、元の木阿弥でしょう。
リベラル改憲論の支離滅裂さ
では、どんな理由なら憲法を変える理由になるのか。憲法に書かれている理念が、理念としてまちがっていること。それならば、憲法を変える理由になります。
この点について言えば、日本の自称「保守」政治家は、正直だし、筋が通っています。彼らに言わせれば、平和主義だけでなく、基本的人権の尊重も国民主権もまちがっているのです。少なくとも、いま理解されているような意味では。だからこそ、現実は、彼らが望んでいるとおりに平和主義も基本的人権も国民主権も守られていないにもかかわらず、わざわざ憲法まで変えたいと言い出しているわけです。これに対して、自称「リベラル」の改憲論者はどうでしょうか。「攻めてくる人がいるかもしれないから」という条件つきで「軍隊がない国家は無理だ」と述べる程度の人はいくらでもいます。しかし、「軍隊がない国家、戦争のない世界を目指す」という理念そのものを真正面から否定している人はいません。だとすれば、9条を書き換える必要性はどこにもないのです。「自衛隊など即時全廃にすべき」という人にとってはもちろん、当面は容認するという人にとっても、その必要はないのです。なのに、なぜ改憲が主張されるのか。保守派と比べても、支離滅裂な話です。ついでに言えば、「軍隊がない国家は無理だ」という主張すら、立証されているとは言えません。
それなら、憲法の『現実を批判する立脚点としての機能』を否定するでしょうか。しかし、そうであるなら、そんな憲法、何に使うの?
「積み木を積むように」考えよう
平和主義も基本的人権も国民主権も認めないような改憲論が論外なことは、言うまでもないとして、しかし、自称「リベラル」の改憲論の支離滅裂さも酷い。理由はここまで述べたことで十分でしょう。そもそも「論」と呼びうる内実がない。
民主主義は、多様な意見を出発点としつつも、「議論を通じて、その多様性を縮減する能力」を必要とします。なぜなら、私たちは結局のところ、「一つの社会」に住まねばならないからです。「一つの社会」を形成できる程度の意見の一致を作り出せなければならないからです。だとすれば、事態は深刻です。取り上げた「改憲論」程度のものが簡単に棄却できないということは、私たちの社会が、この能力を欠いているのではないか、という疑念を抱かせるに十分なものだからです。
では、どうすればいいのか。結局のところ、私たち一人ひとりが「積み木を積むように」考えて、一歩ずつ進むしかないと思います。一つひとつのことをよく考えて、その細かな理路を丁寧に明らかにしていくこと。そういう営為を飽くことなく実践していく以外にないと思います。近道はないことを、肝に銘じつつ。