72年目の「敗戦」 戦争責任の忘却と原発事故責任の曖昧化 (1)8・6広島と原発避難者

編集部遠征報告 ①8・6広島 安倍と原爆に抗議 「関東からの避難者たち」も行動

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 共謀罪の強行採決など、「戦後最悪」と呼ばれた今年の国会。教育勅語を教える森友学園問題や、朝鮮への攻撃の扇動は、日本がアジアへの侵略戦争の責任を反省していないことが根底から問われた。また「本土」の「捨石」にされた沖縄では、高江に続き辺野古の本体工事=海上埋立も開始された。そして本紙が連続掲載してきた東電原発事故の被害は、広島・長崎の原爆を経験したにもかかわらず、米国から「核の平和利用」と称して原発を導入し、原爆の被害者も切り捨てられてきたことに起源がある。
 毎年8月は、多くの人が戦争を考える「期間」となる。しかし現在の課題と結びつき、根底から原因を問わなければ変わらない。8月、そうした運動の取り組みも日本各地で行われた。8月6日に原爆ドーム前と周辺で多彩な責任追及集会が行われた。原発事故避難者も多数参加・独自アピール行動も行った。
 また、本紙で紹介した松平耕一さんが、8月8日に永眠した。東京で葬儀と、友人有志による東電前での追悼・抗議集会が行われた。松平さんは、30代で末期大腸がんになり、「東電と原発事故の責任だ」と主張し続けていたからだ。
 8月12日には、沖縄で新基地反対の県民大会があり、大阪の毎週土曜夜の「梅田HEP前解放区」で同日集会も行われた。8月15日の「敗戦」日には、東京で天皇の戦争責任や靖国神社反対を追及する「8.15反靖国デモ」が行われた。編集部は、反戦・反核を根底から捉えなおすために、遠征取材を行った。(編集部)

 毎年8月6日の広島は、平和祈念公園で原爆犠牲者の追悼式典が行われる。しかし、原爆は自然災害ではなく核による大量虐殺だ。追悼だけでは、日本の侵略戦争責任や米国の投下責任が曖昧にされる。これは3・11原発事故被害が忘却され、東電の責任が曖昧にされている図式と重なる。
 8・6の広島で福島事故被害を伝えることは、原爆と原発の忘却にあらがう最大の手段になる。「3・11関東からの避難者たち」はそう考え、5名の避難者+仲間たちが関西から広島へ向かった。
 広島の式典には毎年首相が参列するが、今年は核武装を否定しない安倍晋三だ。8・6広島では多くの抗議と独自集会行われ、避難者たちも参加した。
 6日早朝、平和祈念公園の式典が開場した。同時に、反対側の原爆ドーム前に全国の政治党派や市民団体が結集し、集会を開始した。「関東からの避難者たち」も、ドーム前に陣取り、チラシを配り、パネルを展示した。チラシ裏面には本紙1611号の巻頭論文「深刻!東京圏の放射能汚染」―市民と科学者の内部被曝問題研究会・渡辺悦司さん―と、1621号の松平耕一さんのインタビュー記事を載せ、これらは拡大パネルにもした。さらに、関東圏の放射能被害を英訳したチラシと拡大パネルも用意した。
 ところが、「在特会」などの右翼がドーム前歩道の道路使用許可を取り、大音量で妨害集会を開始。機動隊は、これを口実にドーム正面入口を封鎖し、ドームや式典に来る市民と集会とを分断した。道路封鎖の根拠を聞いても一切答えず、私達を排除した。それでも党派や市民は集会を開始し、中国地方・関西の市民のみならず、沖縄からは、やすまことさんも参加。歌手の川口真由美さんとともに「座り込めここへ」を熱唱した。
 広島市民は、戦争・原発・独裁を強める安倍政権への抗議を続け、原爆が落とされた8時15分には、ダイ・インを行った。その後、中国電力に向けて市内繁華街をデモ行進し、中電前で座り込みを行った。
 平和祈念式典に出席した安倍首相には、「帰れ帰れ!」とヤジが飛んだ。民放テレビでも聞こえる大きさで、これは異例だという。安倍首相は式典後、市内の記者会見で、7月に採択された核兵器禁止条約に政府として「批准しない」と明言した。
 「関東からの避難者たち」は、この間もアピールを続けたが、チラシを受け取り、「福島とともに首都圏も危険だと思っていた。放射能の危険は広島の原爆で証明されている」と話す市民も多かった。来場したフランス人は、「東京もこんなに汚染されているのか。フランスで年間20msvは原発作業員の被曝限度。日本では、住民全員に拡大されたとすれば許されない。帰って広めたい」と衝撃を受けていた。
 式典が終わり、解放された原爆ドーム正面に場所を移してアピールを続け、パネルも多くの人が見入った。原爆の責任と被害が隠され、今また原発被害が隠されようとしていることは同根だ。
 10時半、原爆ドーム横で「8・6広島青空式典」が始まった。広島の被曝二世の運動体を中心に毎年開催され、「全ての被爆者・被曝二世・被曝三世の国家補償を勝ち取ろう!」「日本政府はアジアの戦争被害者に謝罪と補償を行え!」などをスローガンに掲げている。AWC日本連や大阪の被爆二世、九州や山口からも発言。韓国の脱核運動に取り組む若者たちも参加した。
 韓国は文在寅大統領が全原発の廃炉を表明したが、期限が2070年代なのは「遅すぎる」と抗議し、「広島・日本の運動と連帯して脱核を早めていきたい」と表明。「関東からの避難者たち」も自らの避難体験と、6日朝からの感想を話した。歌を交えた多彩なアピールが最後まで続いた。集会では原爆の惨事を書いた絵を路上にパネル展示し、多くの人々が見入っていた。

「平和の夕べ」集会原爆被害を伝えようとした人々

 8月6日前後は、「原水禁」「原水協」大会をはじめ、広島全域で集会や行動が行われる。6日午後には広島YMCA国際文化ホールで2008年から毎年開催されている「8・6ヒロシマ平和の夕べ」集会が行われ、200名が参加した。被曝二世で産婦人科医の河野美代子さんらが主催し、これまで漫画『はだしのゲン』の作者・中沢啓治さんや秋葉忠利前広島市長らをメインスピーカーに招いてきた。今年は被曝二世で元NHKプロデューサーの永田浩三さんが、「ヒロシマの継承と連帯を考える」と題して平和講演を行った。要点を紹介する。
 ―1945年から米国の検閲GHQ・プレスコードが作られ、「原爆のことを語れない・表現できない・共有できない」「被爆者のことに目が向かない・救済がなされない」状態が作られた。
 讀賣報知新聞が投下直後に「原子爆弾」というタイトルで行った連載は、発禁処分を受けた。占領軍民間検閲局は、「日米合同調査団」を組み、総計13500例、病理解剖217例、写真1500枚を奪い去った。
 日本政府も隠蔽を行った。8月7日に「非人道的な武器使用に、海外には徹底的宣伝をする』と決定したが、国内に向けては『新型爆弾にも徹底抗戦の覚悟』を発表と、使い分けた。
 一方、民間人は奮闘した。『三田文学』の小説『原子爆弾』は、『夏の花』とタイトルを変え、「顔がぐちゃぐちゃに腫れ上がって…」など3カ所を削除されたが、掲載させた。作家・原民喜は「水ヲ下サイ アア ノマシテ下サイ」との詩を発表した。詩人・峠三吉もデビューし、『われらの詩』を創刊した。在日朝鮮人とともに表現の場を作り出した。日鋼争議でも朝鮮人と連帯した。
 そのため、「広島の人間は日本人しか見なかった」と言われるのは違うのではないかと思う。
 49年6月に朝鮮戦争が勃発すると、広島市中心の福屋百貨店屋上から大量のビラがまかれた。「参戦反対」と書かれ、峠三吉の詩も載った。峠三吉は声を上げない被爆者の家を一軒一軒訪ね、「原爆被爆者の会」を作った。そしてビキニ水爆を経て、1955年に第一回原水爆禁止世界大会が広島で開かれた。こうした行動から現代の私たちが核兵器廃絶へ学び取るものは大きい。

記憶の風化と隠蔽を止めること

 次に、当時6歳で被爆したジャーナリストの小野瑛子さんが、「全滅した321人、廣島二中の1年生」と題して被爆体験を語った。
 わずかな遺品のみを残して中学生が全滅した事実は、原爆の凄惨さを余すところなく表している。私は父と姉を原爆で殺された。絶望した母は、私をつれて入水自殺しようとしたが、できなかった。その後も多くの人が、検閲のためだけでなく、被爆被害を語れなくなった。
 私はそれを聞き、「明るい復興」の掛け声のもと、被爆健康被害の告白や追及が「復興を妨げる辛く苦しいもの」にさせられたからではないかと感じた。これは、原発事故後の「復興政策」のもとで被害者が置かれた状況と同じで、同じ歴史が繰り返されていると思った。
 次に、原発事故で福島から故郷の岡山へ避難した大塚愛さんが発言した。
 ―大学卒業後に双葉郡川内村に移り住んで大工仕事を行い、子ども2人を生み育ててきた。豊かな自然の中で、自宅も自分で建て、自給自足の生活をしていた。だが原発事故で岡山へ避難。まもなく川内村は全村避難。私は避難移住者を支援する「子ども未来・愛ネットワーク」を立ち上げた。原発賠償訴訟岡山の原告にもなり、16年に岡山県議補選で当選した。
 福島の子どもたちは今も高い汚染の中に置かれ、甲状腺がんが多発している。すぐに避難させるべきだ。
 最後に、川口真由美さんが「悲しみから生まれた平和への道」などを熱唱した。まとめ発言は、電車内被爆者の米澤てつ志さんが「日本が侵略戦争をした事実を全く知らない若者が増えている。とても危険だ。来年も集会を続け、歴史を伝えていこう」と話した。 6日夜、平和祈念公園は灯篭流しの光に包まれ、昼間以上に大勢の人が集まった。しかし、日米への責任追及や戦争反対のアピールは少なく、外国人観光客が写真を取りまくる「美しいイベント」と化していた。
 平和祈念資料館は、入口で真っ先に目に入る原爆被害のリアルな人形展示をやめ、美術館のようなあっさりした展示内容に変わった。「怖いという苦情が多かった」というが、原爆の怖さを伝えずに、何を展示するのか。在日朝鮮人の被爆者の存在や、アジアへの加害の歴史を伝える内容も、ほぼ削除されている。これぞ記憶の風化・隠蔽だ。この動きを止めるために、私たちに何ができるのか?考え続けたい。
(編集部・園)

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