時評・短評 私の直言 「普通コンプレックス」押しつける 世間のプレッシャー

「発達障害」の診断受けた私

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じゃこおろし
 「大人の発達障害」がにわかに世間の耳目を集め始めている。「大人の発達障害」に関する書籍が本屋の店頭に並び、恐らく大人向けであろうADHDの診断を促す車内広告が登場し、マスメディアでも発達障害の特集が組まれるに至っている。また、こうした情報の普及に伴い、この10数年間で発達障害の診断のために受診する大人が増加している。
 私自身、子どもの発達障害診断を機に発達障害について情報を収集するうち、自身も発達障害ではないのかとの疑念が生じ、約3カ月前に精神科を受診した結果、ADHDと診断された。幼少期から忘れ物をはじめとした注意の欠陥が激しく、興味のあるなしによって、物事への集中力の格差が大きかった。そして何よりも苦しめられてきたのが、頭の中の「多動」である。
 私の場合、頭の中が常に「忙しい」。日常生活の些細なことから、対人関係上の不安など、さまざまな情報が頭の中に整理整頓されず散乱しているような状態である。例えば、「今日の授業のレジメ刷らないと」、「今朝子どもに定規持たせたかな」、「ゲームしたい」、「シャワー浴びとかないと」、「でもお腹すいたな」、「あっそういえばあの人にあの本の話したいな」、「そういえばあの人、研究会で発表だったよな」といった考えが、5秒~10秒くらいの間に頭の中を駆け巡る。これらに加え、人と会った後などはさらに忙しくなる。「あの人のあの表情、実は私の話がつまらなかったのかな」、「もしかして私はとんでもない失敗をしてしまったのかもしれない」など、一人反省会が頭の中で繰り広げられるのだ。当然、ひどくくたくたになる。そして、この疲れは身体にもさまざまな症状で現れてくる。
 発達障害について情報を収集し、診断を受けるよりも前、私は、毎日こんなにもくたくたになるのに、どうして他の人たちは「普通」に過ごせているのかわからなかった。いや、もしかすると、「普通」に見えて、実はそれぞれが悩みや苦しみを抱えていたのかもしれなかった。しかし、少なくとも私には周囲の人間が「普通」に見え、彼らと私との間に目に見えない境界線があると感じていた。遡れば、幼少期から「だらしがない」人間として叱責されてきたことからも、自分のことを、「普通に過ごせないダメな人間」と感じ、強烈な「普通コンプレックス」を抱き、それをこじらせ続けてきたのだと思う。
 そんな中、「生きづらさ」という言葉に出会った。そしてその原因として、社会の側にある「普通」の枠組みが、実は非常に歪な形であり、誰かの犠牲の上に成り立つ「システム」であることを学んだ。能力主義や権威主義、ジェンダー、それらを養分にして拡張する資本主義システム、私はそうした枠組み自体を問い、自己に押し付けられてきた責任を社会に投げ返す作業によって、何とか「普通コンプレックス」を解消しようともがいてきた。
 ところが、発達障害と診断されて以降、また「普通コンプレックス」が再燃してきたのだ。というよりも実は、無意識下でくすぶり続けてきたこれが表面化してきた、直視せざるを得なくなってきたのかもしれない。発達障害と診断された帰り道、私はこれまでに感じたことがないほどの、心からの「安堵」を感じ、気付けば涙が溢れていた。私は、自分が「普通」でない「理由」を手に入れた。この「理由」はとても強力で、これをかざせば私の「普通でなさ」は大目に見てもらえる。あるいは、普通でない自分自身を許すことができると感じた。これまでの人生における数々の失敗(と自分で感じる事柄)が走馬灯のように駆け巡った。もし、幼少期に診断を受けていたら、私の「普通コンプレックス」はここまで私を苦しめなかったのだろうか?とも考えた。
 しかし、その後しばらくして、じわじわと疑問と不安が生じてきた。発達障害という「理由」に安心する私の心理自体に、である。なぜ、私は安心するのだろうか。この理由がなければ、私のような人間の存在は許されないのであろうか。全てが発達障害という「理由」のために苦しかったのだろうか。どこからどこまでが発達障害により生じる苦しみなのだろうか。私は、私自身の子どもの人格や特性に理解を示しているつもりであったが、実は、その子どもの特性を、発達障害という「理由」なしには許せなかったのではないか。「発達障害」という理由なしには、私は私を許すことができないのだろうか。
 「普通」という「コンプレックス」は、突き詰めれば「普通」を押し付ける世間の「プレッシャー」が生じさせる。しかし、発達障害と診断され、私はひどく安堵している。結局は、私は本当の意味でこの「普通」の呪縛から解放されていないのだろう。私は、条件付きの自己肯定しかできないのであろう。それだけ、この社会の「普通」を要求するプレッシャーは強固なのだ。「普通コンプレックス」に振り回されながら、あるいは振り回されているからこそ、社会の側の問題を問うていきたい。そうすることで、私が抱いた一つ一つの疑問を、丁寧に考えていきたいと思っている。

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