イスラエルに暮らして イスラム教徒への弾圧強めるイスラエル

「神は偉大なり」を禁止

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イスラエル在住 ガリコ恵美子

 

イスラム教徒が国民の2割強を占めるイスラエルで、イスラム教徒への弾圧としか思えない新法律が発布された。国民とされていない在東エルサレムのパレスチナ人を含めると、新法律の対象になるイスラム教徒の人口は約3割=240万人にものぼる。
 新法の内容は、
(1)「(イスラム教の三大聖地アクサ寺院がある)神殿の丘で『アラー・フ・アクバル』(神は偉大なり)と唱えてはいけない」(2016年7月5日決定)
(2)「アラブ・イスラエリー48の町村及びアクサ寺院を含む東エルサレムのモスクで午後11時から午前7時まで、礼拝を知らせる『アザーン』にスピーカーを使用してはならない」(2017年3月9日決定)
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 (1)「アラー・フ・アクバル」禁止の理由は、「暴力を呼ぶかけ声だから」とされている。しかし、「神は偉大なり」という言葉が暴力を呼ぶという解釈は、イスラム教を全く理解していないからであり、あまりにも稚拙だ。ユダヤ教ラビ総督は、「ユダヤ人は神殿の丘に入ってはならない」と指示しているが、ユダヤ入植者はその掟を破って入場するため、神殿の丘にユダヤ教徒がいることを想定した法律である。
 (2)日の出前=朝4時頃に、モスクから謡われるアザーン(〝神は偉大なり、モハマッドは神の使者、祈りに来なさい〟という文句)の音響禁止は、「朝早くに目が覚めてしまう」というユダヤ人の苦情が発端だ。モスクはイスラム教徒地区にしかないのだが、ユダヤ人が移住(入植)したために、こうした苦情が出る事態になった。
 採択時、国会は大混乱した。テレビ中継を私も観たが、「アラブ・イスラエリー48(パレスチナ系)」の議員たちが怒り、強い異議を叫んだ。ジョイント・リスト党のアイマン・オデ議員らは、採択用紙を破り捨ててこう叫んだ。「俺たちの意見を聞かず、納得するまで話し合いせずに、多数決で決めるなんて卑怯だぞ!」。瞬時にアイマンらパレスチナ系国会議員は、退場させられてしまった。
 民主主義は、少数派の意見も尊重することだ。ユダヤ教徒の意見のみを重視し、イスラム教徒の意見を尊重せず、一方的な法律が成立してしまったことは、民主主義国家として恥ずべき暴挙である。
 (1)の法律が発布された後、東エルサレムの保育園で保母を務める友人=ナジーべが、園児を連れて遠足でアル・アクサ・モスク参拝に出かけた。ナジーべはヘブライ語を解さず、新法律を知らなかった。
 彼女は語る。
 「神殿の丘入場の際、イスラエル国境警察が、園児に一人ずつ名前と年齢を聞き、身分証明書を確認した。園児の年齢は3~5歳。中に入って『アラー・フ・アクバル』と言わないよう園児に言い聞かせろ、と私は指示された。一人でも『アラー・フ・アクバル』と言ったら逮捕する、と。園児のほとんどがイスラム教徒だから、保育園ではイスラムの教えを教育に組み込んでいる。保母である私が、これに反する言動を強いられたことは屈辱だ。園児を犯罪者のように扱う警察のやり方に、怒りで頭がくらくらしたが、園児が逮捕されたり撃たれたりするのを心配し、我慢した。園児にとっても、こんな嫌な体験は、イスラエル人が自分たちを弾圧していることを印象付けるだけなのに…。
 だからと言って、一般庶民のことを考えず、イスラエルの言いなりになっているパレスチナ自治政府を見ている限り、イスラエルが占領から手を引いてパレスチナが独立しても、状況が良くなるとは思えない」。

抵抗し、射殺されたバッセル

 占領を批判すると同時にパレスチナ当局がイスラエルの言いなりになっていることを指摘、批判するジャーナリスト、モハマッド・アル・キーク(昨年イスラエル軍に逮捕され、94日間のハンガーストライキを行った後に釈放)が、再びイ軍に捕まった。罪状も裁判もなしの逮捕に対し、アル・キークはハンガー・ストライキを行っているが、体調は最悪で、死の寸前に及んでいる。
 3月6日、バッセル・アル・アラージ(31)は、イ軍に射殺された。午前2時、「イスラエル人は侵入してはならない」とされているA地区であるアル・ビーレ(ラマーラの隣町)に侵入して銃撃したイ軍に対し、バッセルと仲間は応戦した。午前4時、弾切れにより彼は射殺された。イ軍は仲間4人を連行し、バッセルの死体をも奪い去った。
 エジプトの大学で薬学を学んだバッセルは、薬剤師として働きながら、パレスチナの歴史記述に長け、非暴力抵抗運動を掲げるインテリ青年だった。彼はワラジャ村出身で、5年前、私がコーディネーターをしていた北海道パレスチナ医療奉仕団視察の際、村案内をしてくれた人物だ。村を一周した後、公民館の黒板に図を描いて、(1)ユダヤ人入植のために半分以上の土地を奪われたこと、(2)分離壁が村を分断してしまったこと、をわかりやすく解説してくれた。
 彼は、イスラエルの占領政策を批判すると同時に、パレスチナ自治政府がイスラエルの飼い犬になっていることを批判し、「政治は庶民のために行われるべきだ」と語り、パレスチナ人が弾圧されないよう国際社会に呼びかけ、連帯を求めていた。視察に同行した写真家の高橋美香氏が、講義するバッセルを撮っていたので、写真提供してもらった。
 彼は昨年4月、「武器不法所持及びイスラエルへの攻撃計画の疑い」で仲間5人とともにパレスチナ警察に身柄拘束され、激しい拷問を受けた。無実の彼は、9日間の抗議ハンガーストライキを行い、釈放された。だが、イ軍はバッセルを身柄拘束しようと何度も両親の家を襲撃した。
 バッセルは、「無実であってもいずれイ軍に殺される」と予感していたようだ。仲間とアル・ビーレでアパートを借り、篭った。その日が来るまで。「どこか遠い国へ脱出すればよかったのに」と思う方もおられるかも知れない。しかし、国境をイスラエル当局に牛耳られているパレスチナから、一旦イ軍に目を付けられれば、脱出することは不可能だ。
 その日、イ軍に銃撃を受け、血だらけになったバッセルの隠れ家から、2丁のM16と手作り銃が発見された。イスラエル兵が小遣い欲しさに闇で銃を売っていることが問題になっているが、この銃もその一例だろう。
 しかしバッセルは、釈放からイ軍に殺されるまでの半年間、武器使用を思い留まった。「計画」の証拠はどこにもなかった。理性的に政府を批判し、多くの活動家から好かれ(信頼され)ていたことが、両政府に狙われた理由だ。発見された武器は襲撃された時の護身用に手に入れたものだった、と信用できる筋から聞いた。
 ワラジャ村は、世界一古いとされる樹齢5千年のオリーブの木があり、葡萄栽培に適した起伏の激しい地形に恵まれ、良質の大麦・小麦が育つ、かつて「パレスチナでもっとも美しい村」と賛美されたベツレヘム北西の村である。1945年のイギリスの公式記録によると、18平方キロの広大かつ実り豊かな村だった。第一次中東戦争(48年)で村は滅ぼされ、農地や家屋を失ったパレスチナ人は難民となり、各地へ移住した。残った村人は、停戦ラインが村中央を断ち切るように引かれたため、旧村の東側(当時ヨルダン領)に新ワラジャ村を再建した。これにより村は、30カ所の泉を含む70%の土地を失い、村の西側はイスラエルに併合された。
 第三次中東戦争(67年)で、東エルサレムをヨルダンから奪ったイスラエルは、さらにこの村の半分の土地をエルサレム市に併合した。次に、2003~05年に、イ当局は「分離壁建設用」に多くの土地を没収し、「違法建築」とされた家を撤去し、ハール・ギロ入植地と新ギロ入植地を建設した。こうして、今では人口2500人の、面積微々たる小さな村となっている。

パレスチナ当局に対する抗議

 3月12日、バッセルを弾圧し、イスラエル軍がA地区へ侵入するのを許し、彼を死に至らせたパレスチナ当局に対する抗議デモがラマーラ裁判所前で行われ、200人が参加した。パレスチナ警察は参加者に対し、棍棒、催涙弾、ゴム弾を使用。平和的なデモ行進にパレスチナ警察がこのような暴力を振るうのは、前代未聞のことだ。バッセルの父親を含む11人が怪我を負い、デモのリーダー数名が逮捕された。パ警察は、パレスチナのメディアに対しても報道を禁止し、機材を破壊した。
 3月12日付アル・ジャジーラ紙によると、パレスチナ人弁護士リマ・ナジーはこう語った。「パレスチナ自治政府には庶民の安全を守る義務があるはずだが、逆に平和活動家を政治的理由で裁判にかけたり、留置したり、イスラエル軍の標的にさせている。そんな自治政府の方針に異議表明するために、私たちはここに来た」。
 占領反対運動をバッセルとともに闘った平和活動家タヘル・アニスは、こう語った。「バッセルの死で確信したことは、闘う相手がイスラエルの占領政策だけでなく、イスラエルにゴマすりしているパレスチナ自治政府も含む二者であるということだ。私たちは、バッセルが残した『弾圧に屈しない思想』を大切に受け継がねばならない」。
 今週土曜、昼3時から夜10時にかけて、パレスチナ人とイスラエル人合同企画「東エルサレムのユダヤ化現状観察ツアー」と「西エルサレム中央道路から旧市街まで、占領・弾圧抗議デモ行進」が連続で行われる。私も当然参加する。バッセルの笑顔を心に抱いて。

 

 

 

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