講座テオリア シリーズ・1968~69年反乱から50年第3回 「糟谷孝幸の死」から50年 糟谷の反戦の遺志と私の日本原闘争


イベント詳細

  • 日付:
  • カテゴリ:

Pocket

2019年1月20日(日)13:30開場 14:00開始
会場:文京シビックセンター3階 会議室C
資料代¥1000
(講師)内藤秀之(日本原農民)
1969年11月13日、糟谷孝幸(当時21才・岡山大生)は、大阪・扇町公園での佐藤訪米阻止集会後のデモで機動隊の暴行を受け重傷を負った。
逮捕された糟谷は、脳挫傷の重傷を負ったまま、曽根崎署まで歩かされ、取り調べに「黙秘する」とだけ答えて倒れ、翌14日病院で死亡した。
これに対して、糟谷の仲間たちは特別公務員暴行陵虐致死罪の付審判請求を起こした。だが、裁判所・検察・警察はグルとなり、権力犯罪の真相究明を阻んだ。
「糟谷孝幸の死」から50年。糟谷が命を懸けて反対した佐藤訪米・日米共同宣言は、その後、基地を維持したままの「沖縄返還」、日米ガイドライン、現在の安保法制へとつながっていった。
内藤秀之さんは「糟谷の闘いは決して50年前の昔話ではない。彼の問うた問題はまさに現在の問題だ」と指摘している。現在から「糟谷の死」の意味を改めて考えていきたい。(2018年11月)

糟谷孝幸(かすやたかゆき)1947年8月8日兵庫県加古川市生まれ。県立加古川東高校卒。1968年4月、岡山大学法文学部入学。岡山大学全共闘で活動。
プロレタリア学生同盟。1969年11月13日、佐藤訪米阻止大阪闘争のデモで3機動隊員の暴行を受け、扇町公園南側路上で逮捕。翌14日に死亡。

内藤秀之(ないとうひでゆき)日本原農民。1969年当時、岡山大生として、糟谷孝幸とともに活動。
その後、日本原現闘を経て結婚し、日本原(岡山県奈義町)で農業を営む。乳牛など50頭を飼育し「山の牛乳」を生産。
陸上自衛隊日本原演習場内で田んぼを耕作。軍事演習と演習場周辺住民の平穏な暮らしは両立しないと、日本原基地反対運動に取り組む。
自衛隊の実弾演習や在日米軍による演習場使用、さらに演習拡大に反対し、安保法制違憲岡山訴訟の原告意見陳述(18年3月)では「山野を殺人訓練の演習場ではなく、牛の放牧場に、緑豊かな森林に」と日米安保体制との決別を訴えた。
主催:研究所テオリア
連絡TEL0362737233

Pocket