【時評短評 私の直言】原発と水害の渦中で県民性を問うてみる シネマブロス 宗形 修一

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福島県に生まれ福島県に住んで―

 1966年、京都の立命館に進学した時、高校の担任は国士館大と間違え、立命館の所在地も知らなかった。当時福島県内からの進学先は東北・関東エリアまでで、関西は本当に少なかった。大学に入って友人に聞かれたのは「福島県には海があるのか?」だった、関西人が東北に無関心なのは、東北の人たちが山陰の島根・鳥取を知らないのと同じだな、と自分なりに納得させていた。

国内植民地としての東北

福島市出身の詩人長田弘は「見て育った、故郷の山や川、そして空の風景が人間を形作る」と言っていた。FUKUSHIMAの名は2011年3月11日の東電原発事故で世界的に知られることになったが、人生のほとんどをこの地で過ごしてきた私は、こんなことで知られることになるなら、名も知られず、東北の片隅で豊かな自然を満喫して静かに生きたかったとの思いを切実にしている。
 

台風19号の水害でも、阿武隈川流域を中心に死者32名を出し、現在も450人以上が避難所暮らしである。住宅被害は全壊1211棟、半壊6846棟、床上浸水7430棟(2019年12月2日現在、福島県調べ) で、JR水郡線(郡山~水戸)は、今も全線開通に至ってない。また、汚染土壌を入れたフレコンバッグ(大型土嚢入れ)が約90袋流され、汚染拡大が懸念された。私たちが住む東北は、8世紀の坂上田村麻呂の時代から国内植民地として位置づけられ、田村麻呂は征夷大将軍と称された。この「夷」とは東北で、今もわたしには違和感がある。
 

また、1868年の会津戦争以降の明治政府の官僚が、「白河以北は一山百文」といったのは有名な話で、私たちにはトラウマとなり、東北人の劣等感を醸成した。私たちの時代は、まだ「東北弁は恥ずかしい、標準語にしなければ」という雰囲気があった。

民権運動の拠点としての福島

福島県には県民紙が2紙ある。福島民友・福島民報で、2紙とも1880年代の自由民権運動から生まれた新聞だ。福島県は高知県と並ぶ民権運動の拠点となり、当時の官選知事・三島通庸(明治15年~17年)への抗議と、会津地方での道路掘削の課税問題から、大衆蜂起(喜多方事件)がおこり、民権活動家たちは大弾圧を受けた。これが後の武装蜂起=加波山事件(1884年)へと連なる。
 

また、原発を誘致したのは、木村守江知事(在職1964~76年)だが、福島県出身の東電社長・木川田と懇意になり、福島第一原発を誘致した。が、後に収賄容疑で逮捕され退任した。
 

また、その後の佐藤栄佐久知事(1988~04年)の収賄額0円の国策捜査逮捕事件は、最高裁で有罪が確定したが、彼の東電の事故隠しへの不信が頂点に達した時に逮捕・勾留が行われた。県民の疑念は今も消えない。
 

これらの福島県の歴史をふりかえれば、県民性は決して保守的でもないし、革新的でもない、生活の実感を大切にして生きる普通の日本国民でもあるのだ。しかし、原発事故はその生活を根源から奪った、それ故に県民は怒ったのだ。
 

事故直後、ある農民が私に言った言葉が今も忘れられない「逃げられる奴はイイヨナ、俺たちは田んぼをもって逃げられない」。

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