【くりりゅうの哲学ノート】核や環境破壊を恐れる真っ当な感受性を失っていないか?在野の哲学家 栗田 隆子

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気候変動と賃労働の暴力性

 ニューヨークで行われている「国連気候サミット」に参加していた環境大臣の小泉進次郎が、記者会見で「政治には非常に多くの課題があり、時には退屈です。気候変動のような大きな規模の問題に取り組むとき、それは楽しくなければならず、クールでなければなりません。そして、セクシーでもなければなりません」という発言が話題となっている。  

さらに、9月23日にセクシーの意味を問われ「どういう意味かを説明すること自体がセクシーではない」と説明を拒んだという。この中身のない説明とは対照的にもう一つ話題を呼んでいたのが、スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリさん(16)のスピーチだ。  

「私たちは絶滅の始まりにあるというのに、あなたが話すのはお金や永続的な経済成長のことばかり」だと怒りの表情とともに訴える彼女の姿を見ながら、私は1992年のリオデジャネイロで行われた地球サミットでスピーチした当時12歳だったカナダ出身のセヴァン=スズキさんを思い出した。  

そうだ、環境破壊について語った若者は、トゥーンベリさんが初めてではない。セヴァン=スズキさんは、「もし世界中の国の大人たちが戦争のために使っているお金を全部平和のために使えば、環境や飢餓の問題のために使えば、この地球がすばらしい星になるでしょう」と語っていた。  

1992年のこの言葉を、私は、私たちはどれだけ実践しようとしてきたか。そういう省みなく今のトゥーンベリさんの話を聞いて一喜一憂、応援したり感動したりしているのでは、本当に愚かな大人だ。「感動ポルノ」という言葉があるが、本当にこれでは感動という感情で子どもを消費しているだけだ。  

トゥーンベリさんは「あなたたちが話しているのは、お金のことと、経済発展がいつまでも続くというおとぎ話ばかり。恥ずかしくないんでしょうか!」と語っているが、私自身を振り返れば、大人になればなるほど、「生きていくこと」=「金を稼ぐこと(=賃労働)」に巻き込まれがちだったと思う。賃労働を善きもの、すべきもの、あるいは自己実現であるというより、私自身は賃労働の持つ暴力性について随分と主張し、抗ったつもりだが、それでも非力だった。

賃労働の暴力性はハラスメントなどのかたちで職場の中でも充満しているが、それこそその暴力は動物、植物、生態系に及ぼしてもいる。自分が大人になってわかったのだが(遠くを見られる大人もいるが)「生活のことを考えるしかない」という状況に陥りがちだし、「近くだけを見る」誘惑に弱くなる。その状況を変えていくことこそが環境問題の解決の一歩なのだが、その誘惑にも格段に弱くなる。  

暴力と破壊を生む経済成長

3・11の福島の東電原発事故の時に、「公害を知った時の恐ろしさ、チェルノブイリ事故の時に感じた恐ろしさ(を感じる感受性)を、今の私は格段に失くしてしまった」と愕然とした。核/原子力、環境問題によって人生を脅かされることに恐怖を覚えるその真っ当な感受性こそ本当に未来への希望なのに。  

「命を支える労働が、命を脅かすことになっては本末転倒だ」ということをもっと広く深く考えたい。鬱になったり、お金がなくて辛くなると何も考えられなくなる。その恐ろしい皮肉を知ったことが「大人になった」という事なのかもしれないが。  

今、ようやくわかった。この子どもの時分に比較的持ちやすい「核や環境破壊を恐れる真っ当な感受性」と、「大人が陥りがちな近くだけ見る誘惑と皮肉を見据えて変えようとする力」とが合わさることが、賃労働と経済成長が暴力と破壊を生む問題の解決の糸口となりうるのではないかということを。それこそが子どもを利用しないことにつながるはずだから。

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