【くりりゅうの哲学ノート】社会を変える「私たち」とはどのような「私たち」か 在野の哲学者・文筆業 栗田 隆子

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「革命を信じているか?」

 先日、東京にて宝塚月組公演『チェ・ゲバラ』を友人と観に行った。そう、あのキューバ革命を起こしたチェ・ゲバラが主人公の歌劇である。  

宝塚歌劇団でゲバラをやると聞きつけた私の友人がぜひということで、一緒に観に行った。私自身は宝塚がどういうふうにゲバラを扱うのか不安があったのだが、これが意外(?)と良くて、ゲバラのことを知らない人はもちろん、ディープに知っている人でも、それなりに納得できる内容であった。もちろん革命を表す際に踊ったり歌ったりするのは宝塚ならではである。  

さて、終わった後にご飯を食べながら、一緒に見に行った友人がふと「革命を信じてる?」と尋ねてきたのだ。  

「世界が変わってゆくのは、信じるというより事実だと思う。しかし、革命という言葉がイメージするような急転直下の変化は信じてない。でも確実に世界は、社会は変わる。それは信じるというより、過去においては事実だから」と私は答えた。  

しかし、この質問は「革命の存在」を信じているかどうかではなく「自分たちが革命を起こす力を持っているのか?」と問われていたのではないだろうか。あるいは「革命」という言葉が表すような、権力の奪回とでもいう根本的な変革がありうるのだろうか? など、「革命を信じているか?」という質問にはいくつもの意味が含みこまれているように思えた。  

考えてみれば、過去の革命と呼ばれた出来事は信じるかどうかという問題ではない。それは、何せ「フランス革命」とか「名誉革命」とかすでに名付けられてしまっているものだ。だが、その過去の事実をどう解釈するかは歴史家なり、私たちに委ねられている。つまりそれらの「革命」が、私たちの生活を根本から良い方向に変えるものなのかとか、またさらに王権を奪回して民衆の権利を生み出したといってもその「民衆」とはどのような層だったのかとか、「革命」の内実を問うことはできる。だがそこで起きた出来事そのものは信じる、信じないの話ではないはずだ。まあ、歴史修正主義者というのは、その出来事を「信じる・信じない」の話に持っていこうとする人たちなのだろうが。  

しかしそうではなく私たちが革命を起こしうるかどうか、という問いであれば、確かにそれは「信じる」という領域にも関わってくる。改めて「私たちが革命を起こす力を持っているのか?」と問われたら、どう答えるだろうか。  

まず、私は自分たちが(権力を持ってない側と仮定して)望むタイミングでその権力を奪回することは難しいだろうと考える。そして、いろいろな国でおこった民主化運動のように、それが一旦叶ったとしても、再びバックラッシュというか、後退したように見える出来事が起きるであろうことも予想がつく。  

人は人に影響を 与える

しかし、それでもなお「私たちが革命を起こす力を持っているか」つまりは「私たちが社会を根本的に変えるような力を持っているか」と尋ねられたら、私は「はい」と答える。  

それは自分の力を高く見積もりすぎてという話ではなく、人は人に影響を与えることを認めるか認めないかという話に近い。けれども私たちの多くは、社会どころか一人の人間さえ「変える」ことはできないと考えやすい。  

最近だと「人を変えるより自分をまず変えなさい」といった言葉が流布されている。これは、他人を自分の思うがままに操ることはできないという点では正しいと思うけれど、人に影響を与えることがない、という意味だとしたら間違っている。私たちは自分の思った通りではないとしても、人に影響を与えてしまっている、そのことを認めるのが、私はこの日本での革命というか社会変革のスタートだと思っている。  

あるいは、革命を起こす「私たち」とは? という問いも重要だ。「私たち」とは日本国民? 同じ党派の人? 漠然と左翼と呼ばれる陣営? まずその力を行使しうる存在はどういう集団なのかを考える必要もある。  

それこそ労働環境を変えるのに「労働組合」を必要としたように、この社会を変える「私たち」とは一体どのような「私たち」なのだろうか。暗闇のように思える出来事が続く中で、「革命」とそれを担う主体についてじっくり考えることは悪くない、そう思った。

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