頑張ればなんとかなるとか お花畑な幻想ですね~その1~小坂 保行(路上雑誌販売員・アマチュア作家)

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金沢の路上生活者のリアル

野宿生活者の雑誌販売員として北陸・金沢の路上に立ちつつ、アマチュア作家として地元の表現者らと親交を深める小坂保行さん。そんな小坂さんがなぜ40歳目前で路上生活となったのか、雪の北陸の冬をどう生き延びたのか。過酷な状況を時に嘆き、ぼやき、笑う連載。(編集部・谷町)

いきなりの病、入院、障がい……。  ~野宿生活は突然に~

 野宿直前までは病院に居たんですよ。3カ月ほどの入院生活。退院したその日に野宿生活に突入でしたね。入院する前まではアパート暮らし、日雇い派遣で食いつないでいたんです。工場とか配送助手とか道路工事の警備とかしながら。  

日雇い派遣の前は印刷会社に勤めていました。色校正という見本刷りのセクションです。色校正の機械化により、色校正の部署が廃止されることになったのです。  

時代は2005年の年末。世間はリストラの波が押し寄せてくるかというタイミングで、私の扱いについて会社は苦慮していたようです。私自身、このまま印刷関係の仕事を続けていくことに興味を失っていたこともあり、退職を申し出たのでした。 次の仕事を見つけるまでのつなぎとして、日雇い派遣を選び、そのうちなんとかなるだろうと思っていました。  

2006年1月、38歳の頃に異変が起こります。日雇い仕事からアパートに帰って、くつろごうとした時に、両足に長い間、正座をしたような痺れを感じたんです。立ち上がろうとしても、力が入らない。壁に手をつけてなんとか立ち上がったんですけど、今度は歩こうにも足が思うように動かない。「疲れのせいかな。明日起きれば元通りになってるはず」と深く考えることもなく寝床に入りました。  

翌朝、起き上がる時、足を踏ん張ろうとしたら全く足が反応しないんです。痺れはなくなっているけど、完全な麻痺状態。これはもうさすがに診療してもらわないと、と思っても自分でその場から動けない。携帯電話の電源が残っているうちにと、慌てて救急車を呼びました。生まれて初めて救急車を呼んだのが自分のため、というのも皮肉な話です。救急車が到着した時は胸を撫で下ろしました。このまま誰にも知られずに衰弱していくのかも、ということが頭をよぎりましたから。  

その後、救急車に運ばれて、病院の救急外来へ。診断は脊髄梗塞症。血管にできた血栓が血液の流れを塞ぎ、脊髄の神経が壊死した。医師からそう聞かされたように覚えています。

頼れる親類もなく、 制度も使えず

 リハビリ次第ではある程度の回復はありえるが、完治は見込めない、とも説明されました。緊急入院当初の1週間が寝たきり、その後車椅子での移動、車椅子生活の合間に立って歩くという簡単なリハビリも始めて、壁伝いの自立歩行は可能になりました。  急性期扱いの2カ月間を過ぎると、リハビリのために別の病院に転院しました。本格的なリハビリで、壁伝いに頼らず自立歩行ができるまでに回復しました。それでも当初の医師からの説明通り、完全には回復せず、現在も走ること、手すりを使わずに階段の昇り降り、長時間の立位を維持などは難しいです。リハビリ入院も1カ月が過ぎ、症状固定ということで退院したのですが、収入を絶たれアパートの賃貸料を払うことは絶望的になり、滞納のトラブルを避けるため入院中にアパート契約を解約していました。  

ちなみに急性期・リハビリ期と2つの病院への入院中の医療費は、事情を話して、ある時払いの「ツケ」にしてもらいました。現在ほど無料低額診療事業が普及しておらず、私は利用できませんでした。最近、「ツケ」の医療費を完済できました。  

頼る親類はいなかったのかとの疑問もあると思います。父は既にこの世にいなく、母は私が障がいを負う数年前から特別養護施設に入所していました。一人っ子で、頼れる血縁者もいなかったのです。そんなわけで、所持金数千円の無宿生活を退院当日から始めることを余儀なくされました。  (続く)

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