【時評短評 私の直言】語られなくなった「大衆像」シネマブロス 宗形 修一

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2019年の現在―吉本隆明の考察から

 沖縄辺野古新基地建設強行も勤労統計不正問題も、昨年の加計森友問題も、安倍政権の存亡問題であったが、支持率は40%を切らない(43・2%、ANN調査2019年3月)。現在の安倍政権には底堅い支持基盤が存在すると考える。その安倍支持の内実の解析に参考になるのが吉本隆明が分析した大衆像の姿だ。私たちが思う「大衆像」の変遷を「吉本隆明1968」(鹿島茂著・平凡社新書)から探る。以下、吉本の「自立の思想的拠点」を要約する。1966年の著作なので、彼の表現には抵抗を覚える部分もあると思うが、我慢して読んでほしい。「社会の情況や、政治的な情況がどうあろうとも、『わたし』が現に生活し、明日も生活することだけが重要なので、情況が直接あるいは間接に『わたし』の生活に影響をおよぼしていようといまいと、考える必要もなく、どうもならないという前提にたてば、情況について語ること自体、意味がない。これが大衆が存在している、あるがままの原像である」、「大衆は社会の構成を生活の水準によってしかとらえず、強固な巨大な基盤の上にいる。それとともに、情況に着目しようとしないために、情況に対しては現象的な存在である。もっとも強固な巨大な生活基盤と、もっとも微小な幻想のなかに存在する矛盾が大衆のもつ本質的な存在様式だ」「知識人あるいは、知識人の政治的な集団としての前衛は、幻想として情況の世界水準にどこまでも上昇してゆける存在である。未明の後進社会にあっても、知識人あるいは前衛は世界認識としては現存する世界のもっとも高度な水準にまで必然的に到達すべき宿命・必然的な自全過程を持つ。それとともに、後進社会であるほど社会の構成を生活の水準でとらえる基盤を喪失する宿命・必然的な自然過程をもつ。このような矛盾が、知識人あるいは政治的な前衛がもつ本質的な存在様式だ」。  

1970年代に青春時代を過ごした私たちは、マルクス主義の影響かもしれないが、常に自分の生活環境を見渡しその生活水準を意識していた。それは間違いなく中流下位に位置していた。そして、学生運動に参加を説得する私の前には、生活の現実(貧困・母子家庭等々)を抱える強固な生活の基盤があり、ヤワなマルクス少年などは、軽く跳ね返されていた。  

そして、この2019年の〈大衆の原像〉はどういうものだろうか? マスとしての大衆は存在せず、個々に分解された〈個〉が存在するだけではないだろうか? 私たちに必要なのは、生活に根差した揺るぎない思想の発見であり、生活から遊離した付け焼き刃の考えはダメだということでもある。吉本はこうも言う。「知識人の政治的集団を有意義集団として設定したいとすれば、その思想的課題は、かれらとは逆に大衆の存在様式の原像をたえず自己のなかに繰り込んでゆくことにもとめるほかはない。それは啓蒙とか外部からのイデオロギーの知識人の注入とはまったく逆に、大衆の存在の原像を自らのなかに繰り込むという課題にほかならない」(同)。  

〈大衆〉はガッチリ安倍政権を支えて存在する。その存在に悪罵を投げかけても情況は変わらない。私たちが彼らを説得する「コトバ」をもたなければならない。大衆と正面から対峙しなければならない。そして「人民新聞編集部」へのエールになるかもしれないが、その日本大衆の原像を見つめ、そこに依拠するジャーナリズムの胚胎がこの新聞にあるかもしれない。

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