5月18日(土)13:30~17:00
会場:同志社大学寒梅館ハーディホール
参加費
WAN10周年のあいさつ(上野千鶴子)
2018年12月14日、沖縄県民だけでなく多くの市民が反対している名護市辺野古の海への土砂投入には、胸が張り裂けるような痛みを感じた。反対を唱え、文字通り体を張って、「やめてほしい」と訴えている人たちを、実力・暴力をもって黙らせ、暴言を投げかけたりしてきた政府のこの年末の暴挙に、わたしが知る若者は、「国家レベルのパワハラだ!」と表現していました。
振り返っても、いまの日本社会にはふつふつと怒りが湧いてくるような出来事が蔓延しています。とくに、医学部入試差別問題に現れているように、女性として生きていくには、いくつもの障害物が敷き詰められ、ちょっと油断するとすぐに足をとられて、転んでしまいそうです。女性にとって働きづらい労働環境、どんどんと悪化する労働法制、伝統や文化という名で露骨に女性を排除する、テレビをつければ、性別役割分業をこれでもかと固定化するようなコマーシャルが流され、本来ならより高い責任をおっているはずの政治家や高級官僚がセクハラ発言をしても赦されていく。
いや、そんな遠くのことを見つめなくても、身の回りにも、日々の生活のなかにも、気にすればきりがないほど、わたしたちの生き方や夢のありようを狭めたり、歪めたりしてしまう棘のような出来事が溢れています。もしかして、わたしたちは、そうしてできた傷の痛みに、どこか麻痺しているのではないでしょうか?
わたし自身もまた、ジェンダー規範や異性愛主義に染まりきった生き方・姿に対する無批判な周囲の態度に、幼い頃から何度も何度も晒されてきたために、自分のセクシュアリティを隠すようになりました。フェミニストの研究者になってから、さすがに「彼氏はいるのですか?」とか、「結婚されている?」といった質問には遭いませんが、家族の話に花咲く同僚たちと過ごすのはなんとなく窮屈で、わたしはここにいないほうがいいなぁ、と心の中のもう一人の自分に問いかけます。外から見えているわたしと、外には出していけないので、もう一人、自分のなかにわたしが生まれ、外と内の自分とがうまく一致しないので、いつも誰かと会話しているような状態です。誰に聞かれるわけでなく、自分で隠しているのですから、自分がもっとも自分に酷いことをしているんじゃないかと、悩むこともありました。
そんな、わたしのなかの私を解放してくれたのが、じつはフェミニズムの学びです。私を閉じ込めていないといけない原因は、わたしではなくて、この社会の構造にある。家族だって、政治的に決定された制度の一つ、女性と男性の対という幻想の底には、女性たちを文字通りモノ扱いしてきた歴史が流れている。わたしを変える、私を解放するためにも、社会を変えよう。そんなふうに、わたしはフェミニズムを学んできました。そして、内向きの自分を、あるいは閉じ込められた私を、日本社会の不平等や不正を許さない、怒っていい、いやなことをいやだと言っていい、そう肯定できる自分へと変えてくれました。
怒りは、わたしたちが生き良い社会を作るための、一つの大切な道具ではないでしょうか。怒りがあればこそ、わたしたちは繋がれる、わたし自身を含めた社会を変えていける、そんな怒りの場があっていい。(岡野八代)
みなさんも、こちらで、自分の中に閉じ込めておいた私、「怒りのエッセイ」を発表してみませんか
主催:Women’s Action Network(WAN)