虐殺死から45年―――本多延嘉書記長追悼の集い


イベント詳細

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10月25日(日)14:00~20:00
会場:全水道会館 4F大会議室
参加費:¥3500
第1部:追悼の集い、第2部:食事と交流会
向井拓治
友人・知人の皆さん。
長らくご無沙汰して突然のお便りで失礼します。いかがお過ごしですか。
今年は、本多延嘉書記長がカクマルによって虐殺されてから45年になります。あと5年すると50年を数えます。もうそんなに時間が過ぎました。本多さんの存命中にその指導を受けた仲間の多くも黄泉路をたどり、一年一年少なくなっています。

今、振り返っても、1975年3月14日の出来事の第一報を受けた時の衝撃は忘れることができません。
あの日、私は北小路敏君とともに、本多さんと会い4月の杉並区議選の方針を討議するために待ち合わせ場所で待っていました。待ち合わせ時間をとうに過ぎても来ず、そこへ本多さんがカクマルによって虐殺されたというラジオニュースが飛び込んできました。あまりの衝撃に目の前が真っ暗になる思いでした。事務所に帰り、防衛責任者・谷翰一君と区議選に絶対勝たねばと誓い合ったことを思い出します。杉並にも、カクマルによる事務所攻撃はもちろんのこと、一般区民の門前に糞尿をまき散らし「長谷川がやったのだ」と宣伝する卑劣な攻撃も多くありました。私は前進社に呼ばれ北小路君から「選挙は止めよう」と言われました。「何言い出すんです、それでは本多さん虐殺に屈服したも同然ではないですか」「何としても勝ちます」と言い捨てて帰って来たことを思い出します。そして選挙は長谷川英憲君2869票を獲得(56議席中23位)、三選を果たす堂々の勝利でした。これは私自身の血みどろの復讐戦でした。
皆さんも、心の奥底に刻まれた一人ひとりの「1975年3月14日」をおもちでしょう。

あの日から45年が経ちました。
その後の革共同は一言では言い表せない複雑な推移をたどりました。革共同に残っている人たちがいる一方で、除名、離党も多く、私も1985年都議選直後に東京西部地区委員長を解任され離党しました。それぞれの現在の考え方、立場は一様ではありません。お互いの間には対立、感情の反発もあるでしょう。当時の革共同関係者がバラバラになってしまいました。残念です。
しかし、世界革命・日本革命の勝利に向けて革共同におのれの生涯をかけていたのは、皆同じだと思います。

本多延嘉とは何であったのか、革共同は何であったのか、何にになりえたのか、なりえなかったのか、本多さん追悼の一点を共有して、ともに集い、大いに語り合いたいものです。封印していた記憶、経験を明らかにすることもいいでしょう。
ここに、2020年10月25日、「虐殺死から45年、本多延嘉書記長追悼の集い」へのご参加を呼びかける次第です。
<向井拓治の自己紹介>
1937年東京で生まれる。56年東京工業大学に入学、清水丈夫、北小路敏らと同期。57年1月小野田猛史と反戦学生同盟東工大支部結成、日本共産党入党、5月日本共産党東京目黒地区委員会委員。58年1月革命的共産主義者同盟結成にあたって入党。同年6・1事件で日本共産党から処分さる。59年革共同第二次分裂では大川スパイ問題をめぐって「黒田もクロ」の意見で離党。東工大学生運動をフリーの立場で指導、60年安保闘争をたたかい、国会突入。60年7月復党。62年富山県不二越に入社。富山大マル学同を指導。不二越労働運動で青年部活動家30人ほどを獲得し、自らも労組支会長。66年2月大量人員整理で解雇さる。革共同北陸地方委員会を建設。革共同全国委員に選出。69年10・11月佐藤訪米阻止決戦にあたって上京を命じられ、東京中西部地区委員となり杉並革新連盟を担う。71年東京中西部地区担当政治局員・田川和夫を批判し東京西部地区委員長となる。75年、79年、83年の区議選において指導責任をとり、勝利。長谷川都議選出馬を主張し、85年都議選となるが、その指導から外される。その敗北直後に東京西部地区委員長を解任さる。離党。92年4月富山医科薬科大学(現富山大)医学部入学、98年3月卒業、医師国家試験合格。東京医科歯科大第二内科に入局し、中野総合病院内科を経て現在向井内科クリニックを自宅にて開業中。
連絡:〒201-0003東京都狛江市和泉本町1-36-3-313 江村気付 追悼の集い
E-mail:memorial.hondanobuyoshi@gmail.com/ ブログhttp://hondanobuyoshi1975.livedoor.blog/

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