6月15日(木)13:00~
場所:国会南通用門前
主催・9条改憲阻止の会
連絡TEL03―6206―1101
年年歳歳とはいうけど、紫陽花が目につくようになりました。そして6月15日がやってきます。
6月15日は1960年の安保闘争の中で樺美智子さんが亡くなられた日です、闘いの最中に。
今年もまた、樺さんを偲び、追悼する集まりを持ちます。いつもの国会南門の前においてです。
思えば、樺さんとともにあの安保闘争を闘ったひと、あるいは闘いを見守ったひと、
同時代を生きた人の多くは樺さんの方に旅立っていきました。そんな報に接する日が多くなりました。
毎年、樺さんの追悼にはその人たちの追悼も加わるようになりました。
あの安保闘争も歴史ともいうべき日になりました。あの日からの歳月をかえりみれば当然の事ですね。
あれからの長い時間の中でいろいろのことがありました。僕はその歳月の中であの安保闘争のことをいつも考えていました。
何かにつけて安保闘争は想起されるものだったからです。それは、考えても、考えても考えきれない何ものかが残るものでした。
日常の忙しさに忘れていても何かの折に思い起こされるとき、いつもそんな風にありました。
未完の闘いとしてそれはあり、だから、過去としてではなく、現在や未来としてあるものでした。
いうなら空白や不在というべき現在に差し込む未来から視線のような役割を持つものでした。
過去が完結した時間になり、記号になるのではなく、それに抗って現在や未来に続いているそんな位置をもつものでした。
歴史、そうです、僕らが生きた時間が完結した記号に封じ込められることは
現在が空白で不在になることと同じです。これは歴史が殺されている、あるいは奪われていることです。
それに抗っていくことは何によって可能でしょうか。記憶ですね。記憶というべき財産です。
記憶は僕らの時間を存続させるのだし、時間を死なせ、簒奪するものに抗する秘訣です。
樺さんは6月15日に記憶を保持することを奪われました。僕らは樺さんとともに記憶を保持することやってきました。
6月15日は安保闘争を想起する日ですし、僕らの記憶をよみがえらせ、
現在という空白に抗う日です、今年も樺さんを偲び、僕らの記憶を新たにしましょう。
(文責;三上治)