10月8日(火)18:00開場18:30開始
会場:専修大学神田校舎7号館8階784教室
資料代¥500
(報告)中村勝己(イタリア政治思想史、ネグリ『デカルト・ポリティコ』翻訳者)
『デカルト・ポリティコ』は、1970年、ネグリが 37 歳の頃に刊行したデカルト研究書である。タイトルを直訳すれば『政治的なデカルト』である。本書には幾層もの文脈があり、それを解きほぐすことが難解な本書を理解する鍵となる。ひとつは、本書が1945年の第二次世界大戦の終結(ファシズムの敗北とレジスタンスの勝利)の際の対抗関係を背景にしているということだ。レジスタンス勢力は、連合国軍の協力も得ながら、軍事的・政治的にはファシズムに勝利した。この勝利を、学問の領域、哲学の戦線にまで拡大すること。これがレジスタンスに結集した知識人・哲学者の課題となった。哲学に即して言えば、ハイデガーに代表されるファシズムの哲学と闘い、これを凌駕することが必要であると。図式化すれば「ルカーチ対ハイデガー」である(これはネグリの哲学史研究における先行者リュシアン・ゴルドマンの著作のタイトルでもある)。ただし、ルカーチにはハイデガーに比肩するほどの哲学史の研究蓄積がない。そこでルカーチの学統を継ぐ者たちには「文芸批評家ルカーチ」を超えてその先へと進み、ハイデガー哲学と対決することが求められた。ハイデガーは近代西洋形而上学の歴史を基本的には「存在忘却の歴史」として否定したが、これに対して、近代西洋形而上学=ブルジョアジーの階級意識の合理的で積極的な面を肯定すること、しかもブルジョアジーの遺産を継承するもっとも正統的な嫡子は現代のプロレタリアートであると宣言すること、これが求められた。図式的に言えば、ルカーチが『歴史と階級意識』(1923年)においてカント哲学に即して行なったこと、その弟子ゴルドマンが『隠れたる神』(1955年)においてパスカル哲学に即して行なったことを、デカルト哲学に即して行なうこと、これが1960年代末におけるネグリの課題となったのだ。
もうひとつの層は、西欧諸国においてデカルト研究は、アリストテレス研究と並んで長くカトリック派の牙城であったことだ。ネグリは、学生時代にカトリック青年運動の左派活動家として全国指導部に入るなど頭角を現したのち、自ら辞めたのか排除されたのかはともかく、その後は評議会社会主義者としてイタリア社会党に入党する。そうした経緯も手伝ってか、ネグリは本書『デカルト・ポリティコ』でカトリック哲学の領袖エチエンヌ・ジルソンのデカルト哲学研究を最大の論敵に選んでいる。ジルソンは浩瀚な解説書『デカルト『方法序説』テキストとコメンタール』(初版1925年)その他において、デカルトの「コギト・エルゴ・スム(われ思う故にわれあり)」命題は、実は古代キリスト教の教父アウグスティヌス(354-430)の『独白録』に先行思想を持っていたと指摘した。ジルソンは、カトリック哲学のなかでは近代科学・近代思想との対話を重視する立場を代表していた。カトリック神学こそがデカルトの近代思想を育んだのだと。単なる保守反動・頑迷思想であれば論破するのは容易いが、カトリック哲学こそが近代形而上学の母胎なのだとするジルソンの議論は、ネグリにとり極めて手強い論争対象だったのだ。
さらに、第三の層がある。それは当時のネグリの政治的・組織論的な党派性の問題である。17世紀のデカルトはラディカルな心身二元論から穏健な二元論(心身の合一)へと移行した。同時代の哲学者や数学者、神学者との論争や「弟子」のドイツ王女エリザベトとの対話を通じてのことである。私はそこに当時のネグリの組織論との相同性を見出したいのだ。すなわち、革命党と労働組合の二元論(スターリン流の伝動ベルト論!)に対して、革命党でも労働組合でもない(あるいは革命党でもあり労働組合でもある)評議会という、両者を統合する第三の範疇を措定することが、当時のネグリの組織論的な党派性であった。それが1969年の議会外左翼政治党派ポテーレ・オペライオ(労働者権力)の結成という形で結実した。そしてネグリは1970年代の一連の闘争を通じて、徐々に更なる組織論的な変成を遂げることになる。それは、文字通り「革命党でも労働組合でもない」一元的な大衆闘争機関としてのアウトノミアへの移行である。1979年の弾圧・投獄により強いられた獄中生活において、ネグリはこの実践を理論的・哲学史的に昇華=総括する。すなわち、スピノザ哲学を「神即自然」のラディカルな一元論=内在論の哲学として読み直す作業である。しかし、この話は今回の報告の範囲を超えるテーマである。いずれ機会を改めて詳述することとしたい。
主催:ルネサンス研究所