6月14日、中国の現状をテーマに本紙第4回論説委員会を行った。この間、急速に台頭し世界の政治経済に大きな影響を及ぼしている中国。先ごろ発足した第二期習近平指導部は、どんな課題を抱えているのか――議論した。
習近平への権威・権力集中際立つ
中国では、昨秋の共産党第19回大会、今春の全国人民代表大会を経て、第二期の習近平指導部が発足した。党の規約と憲法前文には、新たに「習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想」と明記された。個人名の記載は毛沢東、鄧小平に続くものだ。
新たに発足した指導部は、人事面でも、側近や地方勤務時代の元部下など習近平の信任の厚い人物で固められた。また、憲法改正によって現行2期とされている国家主席の任期が撤廃され、これまで前例のなかった3期以降の連続政権が可能となった。
権威と権力の集中は際立っている。ふてぶてしい面構えとも相まって、「習近平に権力を集中させた中国はさらなる世界覇権を目指す」といった世評も珍しくない。
そうだろうか。習近平はそれほど余裕綽々ではない。毛沢東も鄧小平も、問題は多々あれ、誰もが否定しがたい実績のゆえに自ずと権威が備わり、あえて権力集中の必要もなかった。それに比べて、習近平の実績は乏しい。だからこそ、わざわざ権威を高め権力を集中させる必要があるのだろう。
揺らぐ共産党統治の正統性
というのも、習近平と中国共産党は、二つの面で正統性の危機に曝されているからだ。
一つは党幹部の汚職・腐敗の蔓延である。改革開放以降、中国経済は年を追うごとに成長を重ねたが、その一方、共産党が強大な力を持つ中国では、政治的権限が経済的利益の源泉となり、資本と権力の癒着が拡大した。民衆の不満も高まり続けた。前党総書記の胡錦濤が「腐敗問題を解決しなければ党が滅び国が滅ぶ」と警鐘を鳴らしたほどだ。
5年前、党総書記に就任した習近平は「虎(大物)もハエ(小物)も叩く」と宣言し、最高幹部から末端まで党員100万人以上を処分する反腐敗運動を進めた。派閥争いなどしている場合ではない、というわけだ。
もう一つは将来展望の問題である。習近平は党大会での演説で、革命以降の中国を3つの時代に分け、「站起来(立ち上がる)、富起来(豊かになる)、強起来(強くなる)!」と表現した。站起来とは、革命によって半封建・半植民地状態の中国を解放した毛沢東の時代を、また富起来とは、改革開放を通じて経済発展を実現した鄧小平の時代を指す。
その上で、習近平は自らの新時代を強起来、つまり経済・軍事両面でのさらなる強国化と位置づけた。しばしば言及する「中国の夢」=「中華民族の偉大なる復興」と同じく、近代以降に失われた中国の歴史的繁栄を取り戻すという、いわば経済成長とナショナリズムの宣言だ。だが、それは共産党の果たすべき任務なのか。むしろ、そこでしか正統性を担保できない窮状の露呈ではないか。
いずれにせよ、共産党による統治の正統性が揺らいでいる現在、習近平に権威と権力を集中し、リーダーシップの明確化によって危機を克服しようとする姿勢が際立って見える。
危機の根源は「共産党の指導」そのもの
ただし、危機の克服は容易ではない。危機の根源をたどれば、最終的に「共産党の指導」という問題に行き着くからだ。今日の中国は実質的に資本主義社会と変わらない。にもかかわらず、政治体制は依然として「共産党の指導」を前提としている。
立法・行政・司法の三権の上に共産党が君臨することによって無制約の権力が生まれ、資本と結びついて腐敗や格差を形成する。その意味で、習近平の反腐敗運動はせいぜい対症療法、悪く言えば「マッチポンプ」に過ぎない。いずれ構造的な改革が避けられないのは、誰もが承知の上だろう。
とはいえ、あまりに強大な権力を創り上げてしまったがゆえに、構造的な改革は難しい。わずかでも統制を緩めれば、たちまち収拾がつかなくなると考えているのかもしれない。劉暁波夫妻に対してあれほど徹底的な弾圧を加えるのも、少数民族に対して「反テロ」を名目にジェノサイドのような対応を続けるのも、潜在的な危機感のなせる業だろう。
中国では今日、とくにデジタル空間における情報管理が強化され、アソシエーションの自由はますます困難を極めている。社会矛盾を自ら解決しようとする非政府組織(NGO)の活動には、監視と統制が付きものだ。弁護士を中心として憲政の実現や人権擁護を追求する「新公民運動」も、一斉拘束で挫折を余儀なくされた。
党ではなく民衆にマルクスが必要
経済成長の成果もあり、体制を批判し民主化を求める動きは表面的には鳴りを潜めている。とはいえ、批判の源泉は枯れることなく、矛盾は常に生まれていることも見ておきたい。
去る5月4日、北京で行われた「マルクス生誕200年記念大会」で、習近平はこう述べた。「我々は引き続きマルクス主義の偉大な旗幟を高く掲げ、マルクス、エンゲルスが予想した人類社会のすばらしい未来図を絶えず中国の大地の上で生き生きと示さなくてはならない!」
たしかに、中国はマルクスを必要としている。しかし、それは共産党ではなく民衆にとってである。私たちはこうした視点から、引き続き中国に注目していくべきだろう。