松平耕一さん(39歳 東京在住。15年に大腸がんのステージ4に)
福島・関東の住民に原発事故の放射能による体調不良が増えている。広島やチェルノブイリでも、末期がんなどの大病を増やし、若年層の死者が激増した。
今回話を聞いた松平耕一さんは、東京で生まれ育ち、15年に37歳で末期大腸がんが発覚した。以来東京で闘病生活を続け、7月現在、ホスピスに入院中だ。「病者」として、「放射能の影響がある。国と東電を許さない。責任を取らせたい」と公言している。3・11事故の核心と言える、初めての声ではないだろうか。
松平さんが被曝の影響があると考える理由は、(1)関東全体も被ばく地帯。内部被曝はわずかでも病気になりうる。(2)親との関係が悪かったため自宅に帰れず、ほぼ毎日「食べて応援」を掲げて福島産の食材を無制限に使う「吉野家」や「サイゼリヤ」などで外食し続けたから。そして、事故後は仕事で毎日銀座の街頭に立っていた.その後も東京では特に汚染の高い東武で事務仕事をし続けた。しかもその仕事内容は、東京電力のADR=原発事故被害者の賠償要求の書類をひたすらコピーし続ける仕事だった。福島から送られてきた大量の書類だ。つまり狭い室内で、封筒や書類についた放射性微粒子が粉じんのように舞い上がり、それを吸い続けていたからだ。
「市民と科学者の内部被曝問題研究会」の渡辺悦司氏は語る。「放射性微粒子は、肺に沈着すると思われるが、かなりの部分は痰として消化器官にに入る。消化器官に入った微粒子は、ナノサイズのものは、消化管から体内に吸収されるが、大きいミクロンサイズの粒子のものは、消化管のどこかに付着すれば、そこで周囲の細胞に放射線を照射し続け、がんを発生させる可能性が十分に考えられる。松平さんは、おそらく作業された当時、サージカルマスク(N95マスクが良いが)でもされていれば、結果は変わったかもしれない。」東電は、そうしたことをせず、危険な仕事を自分たちではなく、何十もの多重派遣の派遣労働者にやらせていたのであり、原発労働と同じ棄民、差別構造だ。実態:https://www.google.co.jp/amp/gamp.ameblo.jp/inoushi71/entry-12122069265.html https://www.google.co.jp/amp/s/anond.hatelabo.jp/touch/20140728201354%3fmode=amp
しかも、「この仕事をしていると外部に言うな」と口止めまでされていた。これは労基法にも違反する、被曝労働・詐取労働の隠蔽ではないのか。
これらの結果、若いほど新陳代謝が活発でがんの進行も早まるため、発覚時には末期であることが増える。
松平さんは、私の友人であり、運動仲間でもある。昨年から「福島原発事故による健康被害者の会」を一緒に立ち上げた。私は東京から関西へ避難したが、帰省の度に面会している。松平さんは自身の病態や原発の影響をネットで発信し続けてきた。闘病方針も自ら選んできた。彼の存在と声は、私が健康被害問題を取り上げ運動する原動力となっている。彼は、「自分の余命は短く、多くの人に声を届けたい」と話す。
「だめ連ラジオ・熱くレヴォリューション!」がホスピスの病床で松平さんに行ったインタビューを、文字起こしさせて頂いたので、ここに掲載する。ぜひ多くの方に読んで頂きたい。(編集部・園)
※「だめ連ラジオ」インタビュー・前半音声:https://www.youtube.com/watch?v=jkRuI9nq79w
後半音声:https://www.youtube.com/watch?v=WDw8rmlmKFE
見つからない発癌 発見時は末期
見つかった時点で大腸がんのステージ4で、肝臓に転移していました。5年生存率は18%ということでした。癌が広がっている範囲が大きくて、手術ができない状態でした。抗ガン剤で治療し、腹痛や便秘のせいで入退院を繰り返してきました。大腸が機能していないので、人工肛門を造設していて、不便な思いをしています。副作用のせいで、いつも具合いが悪く、1日中寝ていることが多かった。激しい苦痛を経験し続け、6月からホスピスに入りました。
病気が見つかるまでの体調ですが、15年11月にものすごい腹痛に襲われて、病院に行って癌だとわかりました。発見されるまで、1年かそれ以上の間、1日6回も7回も下痢があった。精神性のものかと思っていました。10月、11月には、トイレの前で立てなくなり、ずっと転がったままでいて、救急車を呼ぼうかというくらいの状態になりました。
1年に1度の健康診断は受けていました。徐脈があったこと以外は、まったく異常はなかったです。2015年夏に、会社の健康診断を受けています。また、10月には、治療薬検査のバイトで入院しています。また、自転車での転倒とか、胸をぶつけるとか、物理的な原因がきっかけとなり、右胸の下辺りが痛むという症状が、昨年の5月と9月にありました。この時は整形外科にかかったのですが、異常は見つかりませんでした。その時点で精密検査を受けていたら、癌が発見されていたのではと思います。癌による炎症が内臓で起こっていたのだろうと考えています。
私の場合、牛肉や添加物の摂りすぎ、野菜不足の生活、日々の精神的ストレスなどは、癌の原因になったと思います。しかし、私の歳で癌になるのは珍しいと思いますし、原発事故との関連はありうることだと思っています。
夜も叫び続けるがんの苦しみ
15年末から闘病してきましたが、がんはきつい。みんなならない方が良いと思います。自分は以前から致死念慮のようなものがありましたが、甘かったです。やはりキツイです(号泣)。最近は語る気力もなくなってしまって。どうしようもない。沈黙せざるをえなくなる。やはり「命を大切にする」のは大切なことだと思います。
今は寝返りを打つのも辛く、各所、特に股関節が異常に痛みます。「助けてくれ!」と夜中じゅう叫んでいました。でもそれが今の地元の救急病院では伝わらず、放置されていることも多かったです。その時は夜中じゅう絶望していました。超大型の病院に行けば回避できたかもしれませんが…それもそれでがん研究の対象にされてしまう。 結局地元の病院に通い続け、助けてくれる身内の通いやすさを優先しました。
しかし、身内には苦手意識がありますし、身内のせいでがんになったのではという思いもある。どうしてこんな人生になってしまったのかと…(号泣)。どうすれば苦しみを少なく死ぬことができるのか、がもう自分のテーマになっています。
しかし、ホスピスに入れるのは、ある程度お金のある人なんですよね。入れてなければもっときつかったと思います。僕は両親も姉も健在で、身寄りがある。それが無い人の苦しみや絶望は、想像するだに恐ろしいです。家でがん死せざるをえない絶望感は、半端でないと思います。その時「助けてくれ!」と叫んでも、隣近所が助けてくれるかどうか、厳しいですから。
事故との関係伝わらない悲しみ
昨年春に「福島原発事故による健康被害者の会」を作り、4月、5月と集会を行いました。関東の被曝被害を当事者自身が語り合いました。僕は、37歳でがんになるのは早すぎると思います。40歳は国にとって一つの敷居で、40歳以上だと大腸がん、胃がん、肺がんなどのがん検診が受けられるんです。じゃあ40歳以下は切り捨てるのかと。がん患者はどんどん増えるし、被曝との関わりを考えなければいけない。それなのに声が伝わらない悲しみが、ずっとあります(涙)。東京圏の活動家たちも、反原発運動と言っても、自分たちが被曝の当事者として闘っていくことに関しては全然足りていない。煮え切らないものがずっとあります。
放射能は目に見えないから、因果関係の論証は厳しいなと思いつつ、目に見えないからといって「無いんだ」と絶対に言わせてはいけないんです。目に見えないものとの、想像力の闘いが必要だと思います。関東圏も確実に放射能汚染の数値が上がっているので、自分がもし病気になったら、原発事故と関連があるんじゃないかと想像してほしいし、そう主張してほしいし、主張する人がいたら手伝ってあげてほしいと思います。病気はこれからもどんどん出て来ると思います。
だんだんと腸が体から出てきてしまったので、この辺で終わりにしたいと思いますが…やはり、ガンはヤバい。怖い。繰り返し伝えたいです。以前友人に「抗がん剤は使わない方がいい」とアドバイスされましたが、もし使わなければ、自分はその数カ月後には死んでいたと思います。ただ、抗がん剤は生命には不自然なことをしているわけで、自分で自分の身体を傷つけている。医者には、長く生きられるかどうかを見る実験台にされているようです。
原発は恐るべき環境破壊でもあるので、地球も、生命も…ちゃんと尊重しようよ、と心から思います(号泣)。
最後に、松平さんへのインタビュー「3・11被ばく被害者は語ることができるか」から一部転載する。英訳され海外にも紹介された(全文はhttps://radiationdamage311.wordpress.com)。
「福島原発事故の本当の全容は、未だまるで見えていない。ここでは『3・11の被曝被害者』というものの外延を広げたいと思う。福島の近隣圏や関東圏までを含めた東日本の在住のすべての存在は、可能性としての『3・11被曝被害者』でありうる。そして、東日本在住の多くの病人は、実は、可能性としての『健康被害者』でありうる。
東日本の多くの地域で、原発事故後、放射能汚染が観測された。1年間の被曝限度となる放射線量を、平常時は1mSv未満と定めているが、これを超えて被曝させられた人々は、東日本において凄絶な単位で存在する。それはすべて、『3・11被曝被害者』であると定義できるはずだ。この意味で、生まれてこのかた38年間東京都民であった私、松平耕一は、間違いなく『3・11被曝被害者』であると言えよう。
そして、今、松平は1人の病人であるが、もしかしたら、可能性としての『福島原発事故による健康被害者』かもしれない。つまり私は、私たち東日本在住の病人は、『3・11被曝被害者』であることは名乗りえる。私は、文学的な想像力によって、『原発事故による健康被害者』の立場へと跳躍することで、その健康被害者の、歴史的責任について検討したいと思っている。」