つながる心は放射能で汚されない 全ての原発を直ちに停止・廃炉へ!
何の根拠もなく、「浜岡原発以外は安全」との宣言(6月18日・海江田経産相)。運転再開を求める政府に対し、原発13機を抱える福井県側が「安全上の疑問が解決されていない」と、反発するのは当然だ。相変わらず、根拠のない安全神話を語り続ける政府と東電。事故から3ヵ月が経過して、世論もようやく脱原発に傾いてきた。
放射能流出が続くフクシマ原発事故から3ヵ月目にあたる6月11日、全世界100万人デモが呼びかけられ、国内64ヵ所で脱原発イベントが取り組まれた。
東京は、「アルタ前(新宿)をタハリール広場に」を合い言葉に、2万人が集まる「祭」となった。仙台のデモは、分裂したようだが、それぞれのカラーを出して、脱原発を訴えた。大阪の参加者は、4000人程。最後尾のサウンドカーが、全体を盛り上げたが、4月のデモに比べると、家族連れや新たな参加者が増えたとは思えなかったのが残念だ。天気予報が全国的に雨で、子ども連れは参加しづらかったのかもしれない。が、各地それぞれに精一杯、工夫を凝らし、これまでにないデモになったことは、共通している。
イタリアは、6月12日、国民投票による脱原発決定した。ドイツ、スイス、イタリアに続いて、日本も脱原発が達成できるか? これからの闘い如何だ。(編集部)
フリーター全般労働組合 園 良太
6月11日の新宿アルタ前広場には、原発の廃止を求めて歴史的な人数が集まった。
隔離された公園ではなく街中の広場だったことに意味がある。デモは 示威行為 、主張と行動でインパクトを与えることが本質だ。だから諸外国のデモは、何万人もの人が集まり、街を埋め尽くし、交通を止める。日本でいつしか「迷惑」「過激」と思われるようになった行為も、ひとの歴史を作ってきた、世界中で当たり前の行為。希望と自由を生み出す行為。
新宿アルタ前広場、自分は2008年の「自由と生存のメーデー」のゴール場所になったのが最初だった。その後、メーデーや「ないかくだとうデモ」でのゴールが続き、去年からの「沖縄を踏みにじるな!新宿ど真ん中デモ」は、集合してアピールやライブ、出発、ゴールしてもアピールと、場を獲得し続けてきた。その積み重ねが今回も活きていたと思う。
そして、「原発やめろデモ!!!!!」を続けてきた人々は、「アルタ前をタハリール広場にしよう」と提案し、そこに未曾有の人々が集まり、本気で原発を止めうるインパクトを作り出そうとしていた。
全国100万人アクションのこの日、東京は12ヵ所でデモが行われた。新宿中央公園からも、「原発やめろ!!!!!デモ」が、多彩なサウンドカーともに新宿西口から東口を練り歩いた。
先頭はデモでおなじみドラムを叩くブロックと、「福島第一原発」と書かれた巨大なドラム缶が人目を引く。そして新宿フォークゲリラ号、D・I・Ypunk号、DANCE Blocといったサウンドカーが、続々とやってくる。音の力は、飛び入り参加者も激増させ、繁華街の風景を変え、人の底力を引き出しながらゴール場所の新宿アルタ前広場へ流れ込む。
そして、「6・11」の共同行動を準備した様々な団体が用意したアピールカーから、大集会が始まる。車道からはデモ隊が、駅からは各地でデモを終えた人々が次々と合流し、周りを大規模な歩行者が取り囲み、もう手がつけられない。まさに解放区!
各地のデモ、東京デモ、新宿デモから次々発言する。長年原発反対を続けてきた団体や、ドイツからのゲストが、「脱原発は可能だ!」と叫ぶ。そして多彩なミュージシャンが、多彩な音で東口全体を盛り上げ続ける。
そして、最後に政府への3つの要求項目――「原発を止めろ、動かすな、新たに作るな」「子ども20_Sv(シーベルト)など全ての被曝許容量の緩和を撤回しろ」「再生可能な自然エネルギーに転換しろ」と発表し、それをアルタの街頭ビジョンの真上にレーザー光線で投射した。
アルタ前には数えきれない人が集まり、ほぼ全てのテレビ局と新聞社が報道した。若い参加者には「日本でもこんなことができるんだ!」という希望を生み出し、年配者にはかつての風景を思い出させただろう。
様々なグループが協力し、時間をかけて準備や宣伝をし、全国全世界で一緒に動き、デモの熱気や創意工夫とつなげれば、できる。まだまだ課題も多いし、運動の問題設定を深めていかなければいけないとも思う。
脱原発の流れが政治レベルで出来始めている今、それを確実に達成させつつ、例えば政治も財界も国内で脱原発を果たしても、海外(アジア諸国等)へ売り込み続け、現地住民の反対を弾圧し続ける可能性は大いにありうる。
また、大都市が地方都市に原発を押し付けてきた植民地主義的な構造も問い直さなければいけないし、それは沖縄の米軍基地と全く同じ構造だ。問い直すべきは、戦後日本の構造そのものだ。私は、よりラディカルに現状を批判していきたい。原発を無くし、この社会を根底から変えるために、さらなる希望とインパクトを作り出していこう。共に!
大阪の集会・デモには、4000人が集まった。ただし、4月の御堂筋デモと比べて、参加者総数は増えたが、家族連れや初参加者が増加したとは思えなかった。前日から「豪雨」の天気予報が流され、家族連れなどは、早々にデモ参加を諦めたせいかもわからない。
実際、雨は集会直前に上がったのだが、人の出だしは悪く、集会中盤から急速に参加者が増えていった。
「原発銀座」と言われる若狭の地元で反対を唱え続けてきた若狭明通寺住職・中嶌哲演さんは、「若狭からのアピール」(左囲み参照)として、「このままでは、若狭が第2の『フクシマ』になるのは必定。…若狭や六ヶ所などを第2、第3のフクシマにしてはいけない」と訴えた。そのうえで同氏は、「国のシステムを変える眼目の一つとして、自衛隊を軍事組織から、国内外で人命を救い、大災害を救援する、憲法9条にふさわしい平和の組織へ新生させよう」と締めくくった。
デモで最も注目を集めたのは、最後尾のサウンドデモだろう。学生・若者・非正規労働者が中心で、「原発卒業」をスローガンに、沿道を歩く人々にもデモ参加を呼びかけた。
今回の「6・11 原発いらん関西行動」は、4月16日に続く、第2弾となった。この間、5月8日には、大阪ミナミの繁華街で、福島からの避難者をまじえたデモも行われている。各地で思い思いにデモが呼びかけられ、脱原発の世論は確実に大きくなり始めている。
国内54基の原発のうち、被災による停止と定期点検による運転停止で、稼働中の原発は、今年5月段階で17基、8月には12基、12月には5基となる。そして来年3月には0基となり、全ての原発が停止する予定だ。来年夏を原発なしで乗り切れば、脱原発は現実になる。運転再開を許さず、省エネ社会、代替エネルギーの準備など、脱原発に向けたアクションプランを作成しよう。この1年が踏ん張りどころだ。(編集部・山田)
中嶌 哲演
「天災は忘れた頃にやって来る」とすれば、歴史の忘却は同じような人災を繰り返すことになりはしないでしょうか。
1980年の春、縁あって私は広島・長崎の原爆被爆者とともに、「ノーモア・ヒバクシャ」を訴えて回るために、アメリカを訪れたことがあります。サスケナ川の岸からスリーマイルアイランド原発を目撃し、大事故1周年の1万人集会にも参加しました。その集会で、当時9基の原発が運転・建設中だった若狭の実状を紹介すると、参加者の中に一瞬どよめきが起こったことを、私は覚えております。集会後、ある市民から「9基もの集中化はクレージーだ」と言われました。私は「若狭の9基のうち初期の5基は、アメリカのGE(ゼネラルエレクトリック)やWH(ウェスティングハウス・エレクトリック)社の原発なのですよ」と返すと、彼は申し訳なさそうに肩をすくめ、両手を広げて見せました。
日本へ帰って間もなく、私は次の歴史的な事実を知って、改めて驚きました。1853年にペリー提督が乗って来た黒船の名前がサスケハナ号であったこと(「サスケハナ」はアメリカ先住民の部族の名前。17〜18世紀の白人の入植による天然痘や戦争・虐殺などの影響で、壊滅的打撃を受けた)、最大の船が100dだった幕末の日本人にとって、2450dもの黒船がどんなに衝撃的だったか、ということを。
以後、日本は欧米に追いつき、追い越せとばかり、「脱亜入欧・文明開化・富国強兵」の路線をひた走ったわけですが、その影響下、アジア諸国への侵略、沖縄・広島・長崎の悲劇を招き、敗戦の大挫折、大破局を迎えたことは、ご存知の通りです。
戦後は、平和と民主主義の光の中で再出発しましたが、再び「脱亜入米・科学技術立国・経済大国(自衛隊の復活・強化)」という、明治以降の道をたどり直したのではなかったでしょうか。「大きいことはいいことだ」の掛け声のもと、大量生産・大量輸送・大量消費・大量廃棄」の社会を下支えしてきたのが、まさに巨大原発群だったのではありませんか。
この40年間に、福島や若狭などに原発は押し付けられ、累計45万人もの被曝労働者を生み出し、原発大事故の災害弱者として、福島の30万人もの子どもたちに「ヒバク」を強要しています。
若狭の15基の原発のうち、8基が30年以上の老朽炉です。その上、「もんじゅ」再開への策動があり、高浜3号は現にプルサーマル運転中、問題炉の大飯1号は「調整運転」の名目で実質「営業運転」を続行しています。加えて、地震学者の石橋克彦氏は、原発震災のリスク度が高いのは、浜岡に次いで若狭だ、と警告されています。
このままでは、若狭が第2の「フクシマ」になるのは必定です。かつて敗戦末期の体制の不決断が、沖縄の犠牲の上に広島・長崎の悲劇まで招いたように、再びこの国は沖縄をふみにじり、福島に人柱をうち立てながら、なおも若狭や六ヶ所などを第2、第3のフクシマとして、「人身御供」の祭壇にささげるつもりなのでしょうか。
みなさん、もういいかげんに、若狭の原発を止めようではありませんか。そして、
過去の経緯はともあれ、福井県知事は現在、頭をもたげ、背筋を正して、県民の安全を守るべく国のズサンな方針に屈していません。また、原発や使用済み核燃料中間貯蔵施設を拒み続けてきた小浜市民の意思を汲んで、一昨日市議会は「脱原発」を求める意見書を全会一致で可決しました。
そして、関西のみなさん、
そして、最後に、
以上が、若狭の一人の住民として、一人の人間として、一人の仏教徒としての、私の悲願であり、訴えであります。
2011年6月11日 若狭より
SHUT泊・代表 泉かおり
福島の原発事故は、北海道に原発があることも、泊原発がどこにあるのかも知らなかった人たちにも、一歩を踏み出させた。事故直後、原子力安全保安院の記者会見の様子をテレビで見て、「こんな人たちに私たちの命を預けているのか! こうしてはいられない!」と感じた。そして、泊原発を持つ岩内町の海で33年間毎日、海水の温度測定続けてきた斉藤武一さんとの出会いをきっかけに、「いざとなったら一人でやってもいい」という緊迫感で、泊原発即時停止の署名活動とデモの呼びかけを始めた。最初のデモの準備期間は、1週間。
1回目の4月3日のデモには250人、4月10日のデモには500人が集まった。福島震災と原発事故の被災者の方たちの状況に心を痛め、今まで原発に関して無関心できたことを悔い、福島は明日の私たちの姿かもしれない、そうした危機感から集まった人たちが、今、あらたに脱原発のうねりに加わった。
5月5日のこどもの日、青空の下、最初の桜が咲き始める大通り公園から出発した「こどもたちを守るために もう 原発はいらない」札幌ウォークには、福島のこどもたちの最大被ばく量20_Sv引き上げ撤回と脱原発を求めて500人が参加した。ウォークの先頭に立ってシュプレーヒコールの音頭を取ったのは、余市から参加した安斎由羽ちゃん8才。
「こんにちは、わたしの名前は安斎由羽です。8才です。わたしはげんぱつのじこがとってもこわいです。ふくしまで、しょうがっこうに、かよっているお友だちのことを思うと、かなしいきもちでいっぱいです。なぜかと言うと、いつか、がんや重いびょうきになってしまうかもしれない、ほうしゃのうがわたしたち子どもが大すきな場所にあるからです。わたしは、大人になったらなりたいものや、やりたいこと、行きたい所がたくさんあります。子どもはみんなそうだと思います。だから、びょうきになんて、なりたくないです。わたしたちは、体も小さいし、力もありません。大人は、わたしたちをたすけなければいけません。でも、わたしもがんばります。原発を止めてください。おわります」(安斎由羽)。
そして、6・11世界同時脱原発のデモは、円山公園から知事公館に向けて、まずは円山公園でピクニック、原発出前授業の川原先生の「原発のうんち」紙芝居、気功の先生の熊さんの気功青空教室のイベントがあり、そして、2人のアイヌの方たちと福島からの避難者の方からアピールをいただいた。
「私たちは、土地を奪われ、言葉を廃止され、文化を禁止され、そしてさらに、このアイヌモシリに、色があるわけでもない、目に見えるわけじゃない、味があるわけじゃない、こわい原発を泊に持ってこられたことに、怒る。アイヌモシリに持ち込まれた「ウエン」(アイヌ語で、悪いものを意味する)である原発を止めるために、共に頑張ろう」 (石井ポンぺ)
「アメリカのアリゾナのウランが発掘されて、原住民の人たちが癌にかかり、反対運動をはじめたら、FBIにつかまって大変な思いをした。そのウランを、東京電力が買いに来たという。1988年と1990年に、ホピ族とナバホ族の人たちが、日本に抗議にやってきて、広島から幌延まで「聖なる走り」のリレーマラソンを行った。どうして、北海道に核の処理場を作らなければならないのか?
何でもかんでもゴミを北海道に押しつけてほしくない。つい最近、米軍基地に反対する人たちが沖縄の泊港で調査をしたら、米軍が核の搭載をしていた。泊港周辺のカエルには12本も足があることが発見された。チェルノブイリより恐ろしいことがおこっている。大間原発も幌延の核処理施設も泊原発も、核にはすべて反対しよう」(川村兼一)
「私は、福島から家族で避難してきました。親兄弟親類は、避難区域に指定されていない場所なため、まだ福島にいて被曝しています。国やマスコミ、東電は事実を隠しています。
それを国民は信用しています。何が本当なのか、3・11以降、私たち日本人は意識を変革せざるを得ない状態になっています。今回の原発事故がその象徴です。北海道でいろいろな人たちに助けられました。やさしくおもいやりのある言葉をかけていただきました。私たち家族もおかげで立ち直りつつあり、感謝しております。愛や、やさしさのある世界、そして行き過ぎた利潤追求で人間を忘れてしまった世界、どちらも経験しました。私たちは目を醒す時期がきたと思っています」。
郡山から札幌へ一時避難でいらした笹田さんの私たちへのメッセージは、「泊原発をとめてください!」だった。泊原発を止め、全国のそして世界の原発を止めるために、福島が大きな犠牲を払って教えてくれたことを、ひきうけていきたい。フクシマ発、泊経由、世界行きのバス「脱原発号」は発車した。
泉かおりさんプロフィール
札幌出身。世界食糧計画 (WFP)ザンビア支部、ジンバブエにあるFAO東南部アフリカ地域事務所とFAOローマ本部勤務。「SHUT泊」代表、「福島の子どもたちを守る会・北海道」共同代表。著書『甦る女たち─アフリカの女たちの闘い HIVエイズと財産喪失からの再生に向けて』
ALTER NWCS・独立系市民メディア放送部
遠藤修一(Twitter:unkoiro)
今回、「6・11仙台デモ」について、初めて原稿の依頼を受けた。これは良い問題提起の機会ではないかとの思いもあり、本音で書いてみたい。
まず、デモの結果から言えば、参加者は約500人。震災からちょうど3カ月目である6・11のこの日、この数を多いと見るか、少ないと見るか。少なくとも仙台で行われるデモパレードとしては決して少なくはないけど、僕としては最低でも1000人以上を集めたかった。それは、デモの効力を考えれば、その説得力は規模に比例するからだ。既存の大手メディアとネット上のその温度差は、凄まじい。だからこそ、リアルに働きかけることは重要だ。
僕の本来の活動の主体は「ネット」だ。ALTER NWCS(http://alternwcs.org)で、「うんこ色の社会情勢についてお勉強」というタイトルの放送を約3年、その放送回数は450回を越えた。タイトルについては、フザケているわけじゃない。社会問題を扱いつつも、堅苦しいイメージにはしたくなかった。原発問題に限らず、震災復興については、県議会の傍聴にも参加し、その前にはTPP問題についての動画や、街頭インタビューなども手がけてきた。
今回の「6・11 SENDAI」は、そうした背景から、放送内の企画として4月中頃に企画され、既存のデモに対して感じることや、デモに効力を持たせるためにはどうあるべきか?そんな僕なりの考えを強く打ち出そうとしたことから、後には苦労する結果にもなってしまった。
当日に参加は出来なかったけど、そうしたネット上の繋がりから幾つかの重要な協力を得て、今回のイベントを無事終わらせることが出来たのも確かだ。
僕は、今回の運動を既存の団体、組織の主導としたくないばかりか、右派、左派の垣根をも取っ払いたかった。右左共に長所も欠点もあり、それは例えば、右派の問題が既得権益の保守であるならば、左派の問題は、自己満足な理想主義、のように。
デモの効力がその規模に比例するものであるからこそ、そうした垣根を乗り越えなければならず、そして大手メディア主導のプロパガンダに対抗するには、もっと多くの議論も必要なはず。僕達は対案も出さずに、ただ反対するだけの野党のようにはなりたくない。更にもっと多くの人々を動員するためにも、僕がやるからには、決して定例のお祭りのようにもしたくなかった。
そういうわけで、残念ながら、デモの数日前に実行委は決定的に分裂してしまったけど、今回、右左にかかわらず、僕の考えに対する理解、支持の声も聞くことができた。思いがけない方々の参加もあり、デモパレードを大きく盛り上げてもくれた。仙台のパンクロックの中心地であるバードランドもその一つで、彼らは独自のルートから震災復興を支援している。「パンク」と言えば左のイメージが強いが、右もいるし、仲も良いのが普通だ。親友が、宮城県への出張中に被災し、亡くなり、熊本から参加してくれた「活動する保守」(笑)を自称する歌手の川瀬桂さんや、他の参加アーティスト、バンド、そして市民に感謝したい。そして、イベントの終了後も明け方まで、若い参加者を中心に右左の垣根を越えた有意義な議論が続いたのだから、今回、内容としては成功だ。
最後にこの場を借りて。今後、「No NUKE JAPAN」として、ネット主体の、多面的な運動を展開していきたい。意見交換や、放送による討論、動画製作など、一人でも多くの方々の参加を求めたい。個人としての参加であれば思想、信条は問いません。esm691@gmail.comまで。
書き足りないけど、今回はこれで。(Twitter:unkoiro)
Esaman
6・11、全国からの呼びかけに応えて、名古屋では「6・11 脱原発100万人アクションin あいち 放射能の電気はイヤン! 原発サヨナラ大行進」が開催されました。
愛知では、脱原発の街頭アクションとしては、3月27日に開催された、高校生が呼びかけ500人を集めた「脱原発を歩こう!〜ストップHAMAOKAぱれーど〜」。そして、5月8日に開催された、STOP浜岡のスタッフと「放射能に不安を感じるママの会」が呼びかけて1500人を集めた、「母の日×卒げんぱつ 感謝祭&パレード」が開催されてきました。
しかしながら、連日の活動によって日常生活にも支障が出てきていたことから、3月27日・5月8日の両アクションを主催したグループは、ひとまずリタイア。デモの主催は行わないことになりました。今回の「6・11脱原発100万人アクションin あいち」は、両アクションにも関わってきた人たちや、平和運動を担ってきた人たちが実行委員会を作って行いました。
集会の参加は300人。デモは出発時には500人ほどでしたが、最終的には800人になりました。
実行委員会は、脱原発のマークの書かれたウチワを作成したり、秘密兵器「素人手作りサウンドカー」も用意しました。このサウンドカーは、各地のデモで見られる「サウンドデモ」をやってみたいのだけど、やり方がよく分からない年配の活動家のみなさんが、「できる範囲でやってみよう」ということで、自宅にある大きなスピーカーを持ってきたりして作ったものです。
しかしながら、なれない作業のためか、サウンドカーは不調。音楽よりもシュプレヒコールのほうが大きいという、割と静かなデモになりました。しかし、年配の活動家のみなさんが音響機材を用意することの意義を認めたことは、大きかったと思います。
スタッフにはデモには慣れた活動家の人たちが多いので、歩く速度もゆっくりしており、十分にアピールすることができました。
中部電力前では、20人ほどの在特会の集団がデモ隊を待ち受けて「歓迎」。「急げ核武装」などのノボリと日の丸を立てて、「犯罪者左翼は日本から出て行け」などと叫んでいましたが、デモの参加者には「左翼っぽい」人もあまりおらず、在特会の声がよく聞こえなかったこともあり、デモ参加者の中には「よくわからないけど、右翼も反原発していたよ(実際には原発推進)」などと言い出す人も居て、かなり間抜けな展開となっていました。
在特会の待ち受けているエリアだけ、警察がデモ隊を急かして、早く通過させようとしていたのが印象的でした。
原発いらない福岡 いのうえしんぢ
「道ならぬ恋におちただけで死刑」「パンを盗んだ罰で足が切り落とされる」─そんな恐ろしいことが、ほんの少し前の時代にはありました。
原発問題を口にして、そんなとてつもない迫害が日本にあったかは僕は知らないけれど…いまでもバッシングがあることは事実です。
福岡に住む僕たちは、5月8日のサウンドデモと同じく、6月11日の脱原発・全世界統一アクションデーにもあわせて「原発いらない福岡」という実行委員会主催で、デモを計画しました。
今回は、代替エネルギー展示用トラック、バンド演奏トラック、DJサウンドカー、生ツインドラム・トラックなど、車両5台を走らせるという福岡市民運動史上初めての試みもあって、そこで警察との攻防があるのは当然ですが…行政(出発到着時の公園を管理する福岡中央区役所)に対しても何度も足を運ぶことになりました。
フランス/パリのデモ |
そこにあったのは、僕ら主催者に対する違和感を持つ人たちとの軋轢でした。5月のデモにも使用した福岡市中央区の繁華街にある警固公園を再び使うことにしていた僕たちは、公園申請を出して今回もすんなり通ると思いきや、各方面からクレームが入ったらしいのです。それに対応した区役所が、公園使用にこれまでにはなかったたくさんの条件を増やしてきて、「場合によっては公園許可を取り消す」と通告してきたのです。区役所が集会やデモを中止させる権限はないし、その越権行為をやろうとすることは、とんでもない弾圧行為だ、とはねのける労力が必要になりました。
しかも区役所側は、「公園内だけは静かにして欲しい。路上では関知しない」と。これは、「自分の半径数メートル以内が平和であればいい」という、電力会社と政府と自治体のなかで責任のなすりあいをしてる構図とまったく一緒です(6・11当日にはクレーマーからの依頼なのか、ご丁寧に公園内には騒音計測マイクが設置されていた)。
その上に、違和を投げつけて来たのは、インターネットから声をあげる人たちでした。脱原発/反原発運動をやっていたら、何度も投げかけられる言葉「反対するなら電気を使うな」。あまりにも食傷気味だからなのかやや乱暴になってしまうのですが、「代替エネルギーをどうするんだ」なんてことを考えなくてもいいんじゃないかと思うんです。考えないで「原発やめろ」というのは、無責任なのでしょうか?
「責任をもって意見を言え」と言うなら、政府や電力会社からの情報が全面的にオープンされてからでしょう。意見を表明したら、それが政策に反映される保障があってからでしょう。それがないのに責任だけ問われてしまうのは、文句を言うなという脅迫でしかありません。僕たちが民主主義と呼ばれる世界に立っているとするならば…人間は不完全なものだから、100%正しい権力者などいやしない。だからこそみんなの意見と力を寄せ集めるしかない、という考えから始まっているはずです。「危ないものは危ない」「いやなものはいやだ」と、それぞれの立場から声を出すところから始めるしかありません。
この寄せ集めというか多種多様な感じは、実行メンバーの顔ぶれを初めてみた時に、改めて実感させられたことです。これまで僕がNPOやNGO、市民運動でつながってきた人たちと違う人たちでした。9・11テロ、イラク反戦行動など2001年から10年間、福岡での路上でのデモでは良く集まって2〜300人というレベル…それが今回2回とも1000人以上の参加者があったのは、やはり多様な人たちの呼びかけがあったからに違いありません。
もちろん、過去に例のない、大きな震災という影響もあるとはいえ、福岡の路上にそれが反映されるとは僕は思っていませんでしたから…。
そして、読者の皆さんの中には違和感があるかもしれないけれど…今回のサウンドデモには、「反原発右派」などとプラカードを掲げた「ライト」な人たちも参加しました。僕がふだん活動するうえで、人権や外交問題では相容れない考えの人たちです。
しかし、原発問題では同じ土俵にたって声をあげたこと。この意味を考えていくことも、大事なことかもしれません。
原発に反対でも賛成でも容認でも、自分の意見がわからなくたって、何度でも考えてみること。悩んだり迷ったりしながら、自分の頭で物事を考えること。その問いかけは、やがてブーメランみたいに自分の元に返ってくるでしょう。
その往復作業がきっと自分を、そして自分の住む世界をきっと強くしてくれるはず。強くなってどうなるかって? それは、これからの僕たちの宿題なのかもしれません。
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