2015/12/3更新
大学院生 片岡 英子
「戦後70年」を迎えた今年も、残すところひと月あまりとなった。この年、安倍政権によって打ち立てられた戦争法案は、彼らにとって大きな躍進の一歩であっただろう。彼らは戦争をする国家作りへの道程に、戦争法案という旗を大きく掲げることができた。無論、その旗は私たちにとっては敗北と屈辱の色をしたためたものでしかない。それでも戦後70年という年に翻ったこの旗は、後年、この年のシンボルとなるのだろう。この旗を見上げるたび、私は30年後の未来へと想いを馳せずにはいられない。戦後100年となった年。この国はどのような有り様となっているのだろうか。この国に住む人はどのように100年前の戦争を語るのだろうか。そしてその時、この国の人はその手に他国の誰かの血を滲ませているのだろうか、と。
戦後100年という未来を見据えて、ここでは戦争の記憶を継承するということについて、少し述べてみたいと思う。この「記憶の継承」という問題系は、歴史観にも影響を及ぼす非常に重要な視点として、再三指摘され続けていることであろう。
戦争体験世代が高齢化し、戦後生まれが人口の大半を占めている現在、戦争体験者の証言を文字や音声、映像によって記録しようとする試みは多方面から行われていると言える。そうした試みは数十年前から行われてきており、空襲や原爆をはじめとする被害の記憶から、沖縄の記憶、そして加害の記憶など、多岐にわたる証言が蓄積され続けている。内容はともかくも、こうした記憶は証言者がいなくなるまで記録され続けるだろうし、その記憶をもとに我々は戦争を語り継ごうとするだろう。
しかし、そうして記録されている記憶が「事実」と必ずしも一致しないこともまた、私たちは知っている。『夜と霧』を記したヴィクトール・E・フランクルが「これは事実の報告ではない。体験記だ」と述べたように、体験者の発信する記憶は彼ら固有の物語でしかない。しかもそれらは物語られた記憶である。
物語られることのない、沈黙を守り続けている記憶も存在する。ホロコーストの生還者の証言をまとめた映画「ショアー」(1985年、仏)が表現しているように、戦争の記憶は語り継ぐことが不可能である、という性格も有している。その凄惨な記憶ゆえに、戦争体験者は往々にして沈黙する。その沈黙の前で立ちすくむことなく、沈黙そのものも証言として記録は蓄積され続けなければならないだろう。
一方で、戦争体験者が高齢化して語り手がほとんどいなくなってしまった現在、記憶の蓄積、継承を行うだけでは事足りない現状であるとも言える。膨大な記憶の一群をまとめ上げ、練り上げることで、安倍首相のような「修正主義」に抗する人びとも多くある。しかし、そうした抵抗の場では、戦争体験者の沈黙の意味が捨象されてしまうのではないか、という危惧を私は抱いている。
たとえば、ここにBC級戦犯としてスガモプリズンに収容されたとある人物の手記がある。彼は言う「『お前は下手をやったのだよ。馬鹿正直だったのだよ(中略)まさしく人生の失敗者だよ』(中略)『刑罰とは何か?誰が決めたんだ!』と心はしきりにあえぎつつ叫ぶ」と。このように、BC級戦犯の手記には、問われた加害と、戦中に己が置かれた犠牲者的立場との狭間に呻吟し、葛藤するものが決して少なくない。そしてその多くは、釈放後は語ることなく沈黙を守り続けた。
私たちはこれを「戦争への反省がない」「他国の犠牲者への眼差しが欠如している」「戦争責任を内面化するまでには至っていない」と切り捨てるべきではない。彼らが黙した意味を問い続けなければならない。そこに戦争をする国家への道程を妨げる思想的萌芽があると考えるのは的外れであろうか。戦争体験者の多くが沈黙した意味。記憶の底辺に沈殿するそれらをすくい上げたとき、私たちは戦争が人間性の破壊をもたらすものだということだけでなく、多くの人間が抗う術もなく非人間性へと滑り落ちることができる、という絶望的な事実に気づくことができるはずである。そしてそこから生還してもなお、戦争の責任と身に刻まれた痛みは、一人の人間の手に余るものである、ということも。
沈黙の底にある語られぬ記憶。何故それが語られないのか。語られぬそれは一体何を抱え込んでいるのか。戦中から抵抗を試みた人、戦争責任に自覚的な人びとの営みから学ぶだけでなく、その沈黙の意味を問い続けることもまた、現在必要な作業なのだろう。
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