2015/9/21更新
イスラエル在住 ガリコ・美恵子
10年ほど前から、イスラエルの町でスーダン人が大勢見られるようになった。50年続く内戦から逃げてくるのは、兵士になりたくない若者が大半だったが、子どもや女性も含まれていた。
彼/彼女らは船やバスでエジプトまで行き、カイロから国連へ難民申請を行い、政治亡命者として難民許可を受ける。運のいい者はアメリカやオーストラリア、カナダ、ヨーロッパなど難民支援国への渡航ビザを取得するが、そうでない者はイスラエルへ密入国していた。これを知ったエリトリア人も、内戦や飢饉から避難するために大勢やってきた。
2007年、妊娠中の女性や幼児を含む22名が、真夏のシナイ半島を3日間歩き続けてイスラエルへ入国し、国連保護の下、エルサレムの三流ホテルに収容されたことを聞いて面会に行った。
「虐殺の危険がない国へとうとうやってきた」と、彼/彼女らは嬉しそうだった。当時、こうして戦禍から逃れてくる数万人のスーダン人がイスラエルで生活しており、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)も設置された。
イスラム教を国教とするスーダン北部がスーダンの国家的統治権を握っていたこともあり、南部出身者もアラビア語ができる。アラビア語が理解できれば、ヘブライ語の上達も早い。難民であることを証明され、ヘブライ語の「滞在許可」を受けると、レストランの皿洗いや掃除の仕事に就いた。
スーダン料理店やバー、雑貨屋、ネットカフェ、レコード屋、靴屋、服屋を開業した者もおり、2011年までは、テルアビブ南部にあるネヴェ・シャーナン通りはスーダン人であふれた。
私は難民たちと親しくなり、食事に招かれる度にインタビューした。
―なぜ、多くの男性が、スーダンに女性や子ども、高齢者を残して来るのか。残された者は危険では?
A…男は兵役に就かないと軍に殺されるが、女性や子ども、高齢者には手を出さないのですよ。
―内戦の原因は?
B…スーダン南部には、北部にない水源も石油もある。北部は、南部への支配を通して資源を略奪しようとしているんだ。
―今後どうするのか?
C…内戦が続くなら、ここで働いて、家族を呼びます。
―国境をどうやって越えたのか?
D…ベドウィン(遊牧民族)がシナイ半島に生活していて、イスラエルに密入国できる場所を知っているんだ。やつらに金を払えば、連れて行ってくれる。金が足りないと、暴行されたり、女性は性暴力を受けた。
俺は国境を越えて、砂漠を歩いていたら、国境警備隊に捕まり、拘留場に数カ月強制収容された。
シナイ半島に特殊なベドウィンがいるのは事実だ。シナイ半島のベドウィンは海賊やマフィアのように、他のベドウィンからも恐れられている。Dさんが国境を越えられた場所は、その後にコンクリート壁が設置された。一方、暴行や性暴力で心に傷をうけた人たちは人権保護団体からカウンセリングを受け、多くが家族を呼び寄せた。子どもは、公立学校でヘブライ語の教育を受けている。
内戦中の経験がトラウマで、突如、凶暴になる者もいる。私の知人には、酒を飲んでいる最中に急におかしくなって、隣に座っていた人の耳をナイフで切り裂き、刑務所に入った若者がいる。日頃から優しく、周囲から人気のあった彼の事件は、内戦による後遺症の深さを物語っている。
難民条約によれば、「難民を、彼らの生命や自由が脅威にさらされるおそれのある国へ強制的に追放したり、帰還させてはいけない」ことになっている。しかし、イスラエル政府は、試験的に一部の難民をスーダンへ追放させ、道中のエジプトで消息不明となった。調査によると、エジプトを通過中に、イスラエルにいたのが知られたことで、反逆者またはスパイだとして殺されたという。しかも、スーダンに無事辿り着いた者も、投獄・拷問を受けている。
2011年、南スーダンが独立すると、イスラエル政府は南スーダン出身者を追放し始めた。「自主的に出国すれば、旅費と少額の見舞金を渡す」というキャンペーンが全国で行われ、5千人が応募した。ある難民は「スパイ容疑をかけられるかも知れない。内戦で村は破壊され、安心して暮らせる保証は全くない。子どもや妻を連れて戻っても、村には水道も電気もなく、伝染病に対処する医療機関も薬もない状況だ。こちらで生まれ育った免疫のない子どもが生き残ることができるのか」と語った。
イスラエル政府は、国内に留まり続けた南スーダン人を収容施設に入れ、本国または隣国へ追放した。その後、エリトリアやスーダン北部からの難民も追放する方針が発表された。
現在、イスラエルにはスーダンとエリトリアからの難民4万2千人が滞在しているが、うち2千人はネゲブ砂漠にあるホロート収容施設で拘留されている。最高裁判所の公開データによると、昨年だけで5803人のスーダンおよびエリトリア難民がイスラエルを去り、うち1093人が、本国ではなく他の第三国へと向かった。
当局は、行き先の国名や合意内容を明確にしていないが、ウガンダとルワンダへ送還されたことがわかっている。ウガンダやルワンダへ渡った難民たちは、両政府の庇護を受けることができず、再び去ることになり、別の地域で難民となっている。
南スーダンでは、内戦時代よりさらに悪化した環境が、帰国した難民たちを待ち受けていた。13年、サルバ・キール新大統領の支持層と、リエック・マハール元大統領支持層との間で衝突が起こり、再び内戦へと拡大した。15年4月、南スーダン政府は、新大統領を支持しない住民や地域一帯に虐殺を行った。
住民たちは首を吊らされ、銃殺され、生きたまま燃やされ、女性は性暴力を受け、人質にされ、逃げる者は戦闘車両で轢き殺され、村は燃やされた。2〜3カ月で10万人が住居を失い、200万人が難民となった。
ところがイスラエルは、南スーダン建国時に首脳会談を度々行い、南スーダン人の強制送還や武器輸出を約束し、戦車・軍用機・軍用ヘリ・小銃などを輸出している。イスラエル政府が難民の人権を無視し、追放するばかりか、虐殺に用いられる武器を売るとは、大問題である。
昨年のガザ虐殺後、イスラエルの兵器輸出額は激減した。一般市民を虐殺したイスラエルの汚いやり方は、主要国からも激しく非難され、イスラエル製武器の輸入を抑えようという国が続出したからだ。
しかし、アフリカと日本は逆だった。6月の兵器見本市で、防衛省の技術部門で働く山田よしき氏と樫本かおる氏の語りをイスラエルの新聞が下記のように報じた。「実戦で実証済みのイスラエルの武器は魅力的。ヨーロッパやアメリカに軍需企業は多くある。同様に実闘で使われ、実験済みの武器を提供するイスラエルは、私たちに戦闘に必要な武器を教えてくれると期待している」。
日本政府はガザでの虐殺に加担したことが明らかとなっている。戦争法案が施行されれば、自衛隊が戦地へ赴くことになる。世界のどこかで人殺しの肩代わりをすることもあり得る。 戦争法案は、日本国民が、自衛隊を通して、虐殺の加害者になるのだ、と認識しなければならない。
7月9日、テルアビブ北部にある南スーダン大使公邸で、政府公式会議が行われた際に、抗議行動があった。公邸前でイスラエル人左派が、「イスラエルは武器を売るな」「南スーダンの一般市民虐殺に加担するな」というプラカードを掲げ抗議行動を行った。南スーダンでの市民虐殺に反対するデモは、イスラエルで頻繁に行われている。
スーダンおよび南スーダン…1955年から現在に至るまで内戦が続いている。2011年に南スーダンが建国されるまでは、アフリカ最大面積の国家であった。人口:スーダン=約3千万人、南スーダン約6百万人。
1955年…第一次内戦。
1983年…第二次内戦。
2003年…ダルフール紛争(西部ダルフールで民族間の対立による内紛勃発)
2011年…南スーダン建国。スーダン軍は南スーダンの難民キャンプを爆撃。
2012年…スーダン・南スーダン間で武力衝突。
2013年…南スーダン軍、新大統領を支持しない国民の全地域一帯に迫害・虐殺。現在に至る。
HOME┃社会┃原発問題┃反貧困┃編集一言┃政治┃海外┃情報┃投書┃コラム┃サイトについて┃リンク┃過去記事