2015/5/8更新
大阪市立大学都市研究プラザ特任講師 櫻田 和也
大阪都構想なる特別区設置協定書が、形式的には自治法に基づく大阪市の解散である点については、よく理解されているように思われる。
これは法的にいえば、自治権の放棄に他ならない。自治権とは、まず第一に(無駄遣いかどうか使途はともかく行政による社会的支出の根拠となる)徴税権のことだが、これを放棄するというのだ。政令市長としてはまったく背任的なことであるがゆえに、戦時体制下の東京市が内務省の意向で廃止されたのが唯一の例外であるし、大阪市議会が否決するのも当然のことであった。
さらに解散をゆるすということは、無駄遣いした主体たる政令市の無責任を見逃がすことになる(行政訴訟の相手が消えていなくなる)。ならば、二重行政を訴追するものこそ、大阪市の身勝手な遁走など到底看過できるものではないはずだ。
にもかかわらず、行政批判と解散構想が同居するとしたら、論理的にいって二枚舌のいずれかがタテマエに過ぎないか、すべてがウソだということになる。「嘘も方便」とはいうが、「方便」とは誰かの利益のためにちがいない。何のためか本当のことがわからないとき、どうせ私らではない誰かの儲け話だろうとにらむのが、庶民の智慧というものだ。そしてそれは、たぶん正しい。だから、投票行動をつぶさに見るなら、人口の大半を占める貧困層は、たいがいが市長に投票しないのである。
都市とは、その本性からして貧者の棲み家なのである。労働力を吸引する以上、そうである他ないし、それが社会の単位であるからには、そうでなければならない。過去そうであったし、未来にもそうあり続けるだろう。そして、この事実こそが都市に、世界史的な意味で「都会的なもの」をもたらしてきた。
いったい誰が、ピカピカの新建材や見掛倒しのハリボテで埋め尽くされた無機質なだけの空間に、都会を見い出すのだろうか。
あの焼野原、雑草のように生き延びる子どもたちの飢えたハラを、なんとか満たした焼跡闇市。あれから70年。ろくに機能しない社会空間における、あの法外な野生こそが都市の精神を生き返らせたまぎれもない史的現実を、大阪に骨を埋める他ない流民たちは、ハラの底で憶えているにちがいない。
HOME┃社会┃原発問題┃反貧困┃編集一言┃政治┃海外┃情報┃投書┃コラム┃サイトについて┃リンク┃過去記事