2015/4/14更新
イスラエル在住 ガリコ 美恵子
イスラエルの総選挙は、リクード党が勝利。ナタニヤフが引き続き政権を担うこととなった。私の職場には東エルサレムに住むパレスチナ系住民も多数働いている。3月17日投票日、マネージャーがその一人に「あなたは誰に投票した?」と聞いた。「僕たちには選挙権がない」という答を聞いて、「民主主義のこの国でそんなことはありえない」と大騒ぎになった。
イスラエルに住むアラブ人には選挙権があるが、占領下にある東エルサレムの住民は、地方選挙には参加できても国政での選挙権がないことを知っているユダヤ人は、少ない。アメリカ育ちの彼女は、ネット検索し「パスポートまたは身分証明書を持っていれば投票できる」と書かれている部分を読み上げ、「ない」と答えた本人が間違っていると結論づけて、騒ぎは終わった。私が指摘した〈東エルサレムの住民に関する例外〉は、調べようともしなかった。
選挙前、「誰に投票するか」が論議されてきた。ユダヤ人として生まれたことでモロッコでの貧困生活から抜け出し、イスラエルでの不自由ない生活を勝ち取った姑は「ビビ(ナタニアフ)に入れなさい」と、親戚中に電話をかけまくっていた。
イスラエル人口の3割弱は外国生まれ。そして4割が、生活苦からイスラエルでの豊かな生活を夢見てやってきたロシア移民とその子孫だ。彼らは、政府からの生活援助金が頼りで、必然的に低家賃・低額公共料金が保証される入植地に住むことになる。
ビビ・ナタニヤフは投票直前、「入植地建設は今後も進める、67年の停戦ラインは認めない、パレスチナ国家も認めない」と演説し、洗脳されたまま国の悪事に気づきたくない移民の票を確実にした。
一方、軍がガザや西岸地区を攻撃したりレバノンを侵攻したりする度に反戦運動が起こり、左派になるイスラエル人もかなりいる。
昨年イスラエル軍に殺されたパレスチナ人の数が、67年以降の年間最高数を記録した。和平交渉も、リクード党が選挙で勝利したことで先行きは暗い。
「エルサレム都市再開発計画2020」(注@)は、東エルサレムのパレスチナ人の土地略奪・追放に拍車をかけている。これに反対するイスラエル人左派は、運動を強化し始めた。東エルサレム住民の人権を守ろうと、フェイスブック上で最近発足したばかりの「フリー・ジェルザレム」(エルサレムを解放せよ)という会がある。
投票直後の3月20日、同会が主催する「ショーファット難民キャンプ訪問」に参加した。参加者は、左派活動家、ヘブライ大学生に、キッパを被った宗教派も加わり、百名弱となった。世話役の一人は、「去年のガザ攻撃から左派活動を始めた」という24歳の女性だ。
ショーファット難民キャンプの住民は、イスラエル市民と同じ青色の身分証明書を持っているが、分離壁でイスラエル側と遮断されており、病院、学校、職場へ行く度に検問を受けなければならない。衝突があるとチェックポイントは閉鎖され、救急車も通過できなたちくなる。
「ショーファットはエルサレムで唯一の難民キャンプです。67年に追放された旧市街の住民、家屋破壊されたりイスラエルの入植活動で追い出された人が住んでいます。彼等が、イスラエル人に反感を持っていることは、想像できますね。皆で固まって歩きましょう」と、バスの車中で説明を受けた。
チェックポイントでバスを降りて鉄柵扉をくぐると、地元小学校のブラスバンドによる歓迎演奏が私たちを迎えた。彼等に誘導されてキャンプ内へ入ると、道端はごみだらけだ。「見てください。私たちは市民税を払っているのに、『投石される』と言ってゴミ収集車はめったに来ません。国連学校の教室数は子どもの数に足りていませんし、家屋破壊で移住してきた人々の子孫は、難民認定されないので、国連学校で受け入れてもらえません。そのため多くの子どもが、分離壁を越えてバスで登校しています」との説明を聞きながら、窓から手を振るパレスチナ人に見守られてキャンプ内を回った。アラビア語で話しかけてくる子どもたちも大勢いた。
見学の最後に、コミュニティセンターに集合して質疑応答が行われた。地元民の話にじっと耳を傾ける私たちに向かって、リーダーたちは「私たちの情況を知ろうと来てくださった皆さんに感謝します」と礼を述べた。キャンプを出る時も、チェックポイントの前で、参加者一人ずつに「ありがとう」と言って握手した。
帰りのバスの中で若者が呼びかけた行動にも参加した。旧市街から追放されようとしているパレスチナ人の家の前で抗議行動を行うという。
22日朝、ダマスカス門に集合すると、参加者は約50名だった。イスラム地区に1953年から住んでいるアフマッド・スブ・レバン氏一家8人は、「48年以前にユダヤ人がこの建物に住んでいた」という理由で、立ち退きを命令されている。裁判中だが、2回も軍と入植者が攻撃してきたという。67年以降ユダヤ地区になってしまった叔父の家は「セキュリティのため」として没収され、入植者が住んでいる。アフマッドの家は、ユダヤ人入植者のものになった建物に囲まれている。
「他人のものを盗んではいけないと旧約聖書に書かれている。これを無視する君たちは恥を知れ!」―左派の太鼓隊の音頭で、イスラエル国旗を掲げた窓から私たちを睨む入植者たちに、デモ隊は大声で叫んだ。ヘブライ語で「入植は泥棒。君らは泥棒」と何度も叫ぶように歌う左派の真剣で熱く澄んだまなざしに、希望を感じずにいられない。
解散時にも、次回の行動の呼びかけがあった。『パレスチナ人追放反対の抗議行動』今週金曜午後1時45分、ダマスカス門集合。
この日の参加者は150人以上。金曜午後は安息日でバスがなくなるにもかかわらず、テルアビブや遠方から来た人も約30人いた。
アラビア語と英語とヘブライ語で『占領反対』『エルサレムのユダヤ化反対』と書かれたプラカードを手に行進を始めると、騎馬隊と警察と軍が行く手を塞ぎ、プラカードをもぎ取り始めた。私は礼拝帰りの人ごみに混じって逃げたが、追いかけてきた兵士に力づくで奪われた。国境警察の車がしつこく追跡して、「シュプレヒコールを挙げる者は逮捕する」と脅したので、シェイク・ジャラまで無言で歩いた。
現地到着後、路地に入り話を聞いた。家の権利書があるにもかかわらず『土地管理法』により追放されることになっているアフマッドが、「抗議行動が効いて、立ち退き期日が延長された」と報告した。
次に入植反対運動のリーダー=サレへがこう話した。「今日プラカードが何十枚も軍に奪われましたが、次は百枚作ります。それが奪われれば千枚作ります。ユダヤ人に有利な法律を作って、私たちを追放しようとするユダヤ化計画反対運動に参加してくれるあなた方に感謝します。彼等は暴力で奪おうとしますが、私たちは愛一杯の生命力で反対運動を続けます。占領が終わるまで」。
私たちは大きな拍手を送り、太鼓隊が音を鳴らし始め、『占領止めろ』『占領している土地に聖性はない』と歌い、行進した。
イスラエル左派は急に増えたわけではない。30年前には「占領止めろ」という団体が華麗な活動をしていたし、80年代に発足したイエシ・グブール(兵役拒否の若者を支援する団体)は、今も健在だ。第1次インティファーダが勃発した80年代末には「占領やめろ!」と左派歌手が歌ったロック・オペラ「マミ」が大流行し、右派家庭で育った亡夫でさえ、よく歌っていた。
オスロ合意までは盛んだった左派活動は、ラビン首相暗殺や協定内容の解釈の違いなどさまざまな理由で分裂したが、政府が強硬右派路線を走れば、反対する国民は確実に増えていくし、新世代は新しいリズムでマミとよく似た歌を歌っている。正義のために黙っていない新世代の左派活動は、ますます盛んになる。
3月30日には、ダマスカス門で行われた「土地の日(注A)、抗議デモ」に参加した。老若男女100名ほどが並んで座り、土地略奪に断固反対することを数人が話し、「パレスチナに自由を」と歌い、旗を翻した。少年・少女3名が逮捕され、催涙弾4発も打ち込まれた。
そこからさらに数分路地へ入ると、ヒレル・アル・クッズ・クラブがある。ここでは少年たちが柔道の稽古に励んでいた。コーチは、パレスチナ人で初めてオリンピックに出場したマヘル・アブ・ルメイレ(31)だ。現役時代にパレスチナは解放されなかったが、教え子たちが成長し、世界大会に出場する時には、パレスチナが国家として独立していることを夢みて指導するマヘルコーチの眼は輝いていた。
注@:エルサレム新都市計画2020= 30万人である東エルサレムのパレスチナ人口を、2020年までに2万人に減少させることを目指すエルサレムのユダヤ化計画。
注A:1976年3月30日に、〈セキュリティおよび入植地建設のため〉という名目で新たに数千ドーナン(1ドーナム=1000u)のパレスチナの土地が没収されることになったのに対し、パレスチナ人たちが抗議デモおよびストライキを行ない、6名が殺害されたことが始まりとなった土地没収に対する抗議の日。
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