2015/1/31更新
新年号より 「香港・雨傘革命」 の現地レポートをお伝えした。広範・多様な人々が路上占拠を行った雨傘革命はどのような動機を持ち、いかなる背景によって発生した運動だったのか─。
今号では、現地に渡って取材を行った本紙編集部・ラボルテ、脇浜2人の印象記を掲載する。 (編集部)
編集部 ラボルテ 雅樹
今回の取材は、僕にとって「記者とはなんだろうか」と考えさせられた日々だった。現地に着いた初日、「シェアハウスに来たらいいよ」と提案してくれたり、その居候先や占拠現場で食事を共に過ごしたり。話の中で、香港の友人たち個人個人が抱える背景を聞かせてくれたり。「一人親家庭で親が苦労したことを知ってるから、同じ境遇に立たされている人たちの状況を変えたい」と言った同世代の友人の活動家の語りには感銘を覚えつつ。現地の人々には「部外者の君に何が分かるんだ」と思われるかもしれないが、日を重ねるごとに、占拠の場に足を運ぶごとに心情的に同化していった。
「取材なんてほっぽり出して、強制排除の日には僕も最後まで現地の人々と命運を共にしたい」なんて。それを察したのか、現地の友人から「毎日毎日、ずっと占拠地へ足を運んでるし、何か不安定に考え込んでいるね。もうちょっと気楽にいこうよ」と気遣いがあったり。親しくもない人間である僕から「あなたの抱えている問題を教えてくれ」なんて聞くのはいかがものか、と億劫になったり。心境を挙げればきりがない。
香港取材は、貧困・格差・再開発を大きく含めた内容となった。香港へ行く前に日本の主要メディアの情報をチェックした印象としては、「迫りつつある中国支配からの民主化運動」を中心に論じていた。
しかし、よく聞いてみると、貧困・格差・再開発の問題が、取材対象者にも香港社会一般の中にも大きく抱えられていることを認識させられた。
民主派の要求である「我要真普選(真の普通選挙を要求する)」のシングルイシューの実現が、対中問題や貧困・格差・再開発、環境問題なども含めたマルチイシューを解決する、ということなのだろうか。それらが新自由主義や金融資本というキーワードではなく、「選挙制度」と「中国政府」というキーワードで語られているんだと感じた。
もう一つ気になっていたことは、香港に来ている移住労働者のこと。居候先の友人・活動家は、移住労働者のことに取り組んでいたり、香港社会の外にも視点があった。一方で、インタビューを通して「香港人としてのアイデンティティ形成」「観光客を偽った中国本土からの運び屋はとても迷惑」「移民は社会保障から外れていて当然」などの言葉も聞いた。
中国からの政治的な外圧と生活圏への具体的な侵入によって意識・形成された香港アイデンティティと香港ナショナリズム。ナショナリズムは、これまでの歴史と人々に大きな影響力を与えてきた一方、被抑圧者から抑圧者に変わりかねない魔法の杖だと考えている。
香港の民主化運動はナショナリズムを乗り越えられるか?なんて評論は置いて。「都市建設の専門家や文学者だけど、貧困問題や移住労働者の問題にも関心がある・つながりがある」と言った香港の友人たちの活動を隣で見ていて、香港の人々が香港に留まらない変革を促していくことを信じている。"It's just the beginning"―これは始まりに過ぎないのだから。
最後に。香港滞在中に香港で出会った人々・友人たちに、とてもお世話になりました。日常生活や活動で忙しい中、拙い英語しか喋ることができない不器用な僕を暖かく迎えてくれたことに感謝しています。この義理をどう返そうか、と思いつつ。謝意と国際連帯の念を込めて。
編集部 脇浜 義明
一言で表現すれば「雑多」。もう一言付け加えれば「若者」。これは、アラブの春やオキュパイ運動に共通するもの。普通なら距離を置く多様なフラクションが、占拠空間で共存していた。流暢な英語でCNNインタビューに話すリベラル派エリート学生から、「全民倒共!香港是港人的、絶不是共匪的!!!」のスローガンを掲げる反共主義者、運動の標語「我要真普選」から「普選」を消して「民主」に置き換えた標語を掲げる選挙民主主義の偽善を知っている左派までいた。
この多様性の中で共通しているのは、「嫌本土人」と言ってもよい中国人への反感。過去に香港占領という大罪を犯した日本だが、案外日本人が好かれるのは、中国人嫌いの逆表現であろう。この現象は、台湾でも見られた。まともな言い方をすると、香港人アイデンティティがほぼ確立していると言ってよいだろう。
左派で比較的インターナショナルな若者が、「中国は香港を売り渡し、都合のよいときに利用するだけだ。それに、我々には本土人より近代的だという優越感もある」と、香港アイデンティティを語った。多分、このことが中国本土で搾取に苦しむ労働者との連帯への妨害となっているのではないか、と私は思った。天安門事件への連帯感はある。しかし、学生への連帯感で、学生以上に弾圧された労働者に関しては、ほとんど無知だった。階級闘争というより民主化闘争なのだ。
ところが、「民主化」を運動のスローガンに掲げているが、取材で聞いた話は、経済格差や搾取や生活困難の話ばかり。民主化運動を掲げているが、動機的には階級闘争だと思った。生活苦の原因を中国本土人の来襲(観光客・運び屋・妊婦・出稼ぎ等々)から、中国権力・資本と香港権力・資本へと認識の変化が大衆的に起きるとき、階級闘争と本土労働者との連帯が始まるのではないだろうか。
それにしても「若者」中心というのは、同じ活動家の端くれとして、うらやましかった。若者のもつ親和力と若干の無知さが、多様性容認・共存となっているのでは。民主主義と言うなら、何も「普通選挙」を待たないでも、占拠の場では民主主義的討論の花が咲いていた。暴力なしで、反対意見や反論や主張やらが飛び交っていた。特に夕暮れ、勤め帰りの市民が占拠場所へやってきて、論争に加わるのだ。
「選挙民主主義はこういう本当の民主主義の場を奪うよ」と私は、お節介なことを、参加者としては珍しい年配の労組活動家に言った。その活動家は「既成の民主主義デザインがあるわけではない。民衆個々人がデザインを持ち寄って討論して深めていく。形成途上にあるのだ」と答えた。私は納得した。
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