2015/1/22更新
グリーンウォルドのオンラインネット(the intercept)
翻訳・脇浜義明
「仏の9・11」と大騒ぎされるテロと言論の自由事件から見えるものは二つ。政府だけでなく市民レベルでも、「テロとの戦争」はイスラム世界との戦争であり、言論の自由とは、イスラム中傷の自由になってしまったことだ。NATOや米軍によって病院爆撃や民間人大量殺戮はテロではなく、米やイスラエル政府による報道統制も言論の自由の侵害ではない。もちろん、安倍の秘密保護法も言論の自由の侵害ではない。
そもそも、犯人とされるクアシ兄弟の生育歴から判断すると、ブッシュのイラク戦争とアブ・クライブ拷問がなければ兄弟はテロリストにならなかったが、因果関係は一顧だにされない。チョムスキーの言葉を引用すれば、「強大な力の故に正義側とされる人々が行う大きなテロ行為はテロリズムでなく、その正義側が敵と見なす勢力の見解を放送するテレビ局を破壊することは、言論の自由の侵害ではない」のだ(Zネット、1月11日)。
言論を武器とする我々は、より一層「言論の自由」について自覚的でなければなるまい。元弁護士で現ジャーナリストであるグレン・グリーンウォルドの論文を紹介する。(編集部・脇浜)
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「言論・出版の自由」とは、基本的に、「社会から嫌われる思想を伝える権利」だと私は思っている。だから『シャルリ・エブド』襲撃後の言論の自由大合唱は、わからないでもない。しかし、言論の自由の闘いは、たいてい孤独な闘いである。
例えば、あの襲撃事件の前日に私は、ムスリムが政治的メッセージをネット上に発信しただけで投獄された数多くの事例を書いた。これらの言論弾圧に関して、大勢の人(イスラエルの閣僚やドイツのメルケル首相も含めて)が抗議集会やデモを行うことはなかった。また、米国人ムスリムが「過激派」ビデオを翻訳しインターネットで流したとか、パレスチナ抵抗グループを弁護する論文を書いたとか、イスラエルを酷評する文章を書いたなどの言論活動で「罪」に問われ、何年も刑務所に入っている事例、さらには、ユダヤ教を批判して出世を棒に振ったジャーナリストも知っている。
今パリで起きている言論の自由擁護の大合唱が、これらの事例を含めれば申し分ないのだが…。
「言論の自由」論議で大切なことは、思想Xを表現する権利と、思想Xに同調することの区別である。不快な意見を表現する権利を養護するが、同時にその意見を非難することもできることが重要である。ACLU(米国自由人権協会)は、ホロコースト生存者が多く住んでいたイリノイ州スコキーをネオ・ナチがデモ行進したとき、デモの権利を認めたが、その思想を激しく非難した。
今パリで起きている言論の自由運動は、別種のようである。伝える権利を擁護するだけでなく、伝えられる内容に同意し支持することをも含んでいる。多くの評論家や知識人が、殺された漫画家への「連帯」を叫び、内容を賛美し、同種の漫画や冒涜をもっと出版せよと言っている。オンライン・マガジン「スレート」のジェイコブ・ワイスバーグは、「襲撃に対する反撃は冒涜をエスカレートさせることだ」と言った。
シャルリ・エブドの漫画は、風刺にとどまらず、偏見に満ちたものだ。例えば、ボコ・ハラム(ナイジェリアのサラフィー主義イスラム勢力)が、キリスト教学校の黒人女生徒を誘拐した事件があったとき、同誌は被害者黒人女生徒が西側社会の「福祉の女王=ウェルフェア・クイーン」(福祉に依存する女性への蔑称)になっている漫画を掲載した。仏社会の周辺部で差別されている貧困ムスリム大衆を嘲笑する漫画を頻繁に出版しており、「風刺」というより「イジメ」に近い表現活動が多い。
パリに集まった言論自由主義者たちは、そんな事実にはお構いなく、冒涜漫画をその内容において賞賛する。NYタイムズのロス・ドゥザトは「我らが必要とする冒涜」と題するコラムで、「冒涜(ないしは非難)はリベラル体制にとって不可欠」で、「あの種の冒涜(つまり暴力を誘発するような冒涜)こそ、自由社会の善に役立つから、擁護すべき」と書いた。Voxニュースのマット・イグレシアスは、「ムハンマド冒涜によって、シャルリ・エブドは無意味な漫画誌から社会的に必要な勇気ある漫画誌になった。イスラムを挑発するなという意見は、イスラムの暴力に妥協せよという意見だ」と書いた。
では、どんどん冒涜をしよう。ブラジルの風刺漫画家カルロス・ラトゥッフの米政権やイスラエルに関する風刺画は、厳密には冒涜や偏見を含んでいないが、辛辣で挑発的である。私だってムスリム弾圧やパレスチナ人抑圧を批判して言論の自由を擁護してきたのだから、賞賛されて然るべきではないか。ムハンマドを侮辱した作品『悪魔の詩』を書いたサルマン・ラシュディが言ったように、すべての宗教に対して「恐れずに不遜であるべき」だとするならば、イスラエルのユダヤ教神権政治を批判した私は、まさに西洋的価値観の擁護者ではないか。
初めて反イスラム風刺漫画を見たとき私は、お気に入りの宗教グループを守るために、それと敵対関係にある宗教に制裁を加える行為だと思った。
西側政府はムスリム社会を爆撃、侵攻、占領、罪のない人々を殺害、拷問、投獄してきたし、同じことをするイスラエルを支持している。それを支える市民文化として「反ムスリム・ヘイトスピーチ」が必要なのだ。だから、西洋市民の多くが、イスラム冒涜を表現の自由からでなく、その内容から擁護するのは、驚くことではない。
内容に同意している場合や、自分が揶揄対象グループでない場合、言論の自由を訴え易い。しかしその場合でも、内容のエスカレートを叫んだりしないだろう。例えば、黒人やユダヤ人への差別思想を発表して報復で殺害された場合、表現の自由を唱えても、その内容をエスカレートさせよと主張する人はいないだろう。
先述の3人の議論のなかでは、「メディアが報復を恐れてイスラム批判を躊躇してはならない」という主張には、同意できる。しかし、根拠のない中傷は載せないという判断まで、恐怖に屈したとされると、話は別だ。これこそが、言論の自由への脅威である。
この点では、ムスリム過激派より、自国政府やイスラエルの脅迫の方が、たくさんのタブーを作り出し、メディアの自己規制を招いている。このタブーを破ったジャーナリストは、職を失うか、左遷されるか、投獄される場合すらある。上記3人は、ムスリムの言論の自由への脅威を問題にするが、権力による言論抑圧は問題にしない。
この3人も、シャルリ・エブドも、あの偉大な風刺画家アン・テルネーズのような「平等な風刺家」(人種、性別、宗教、政治等に関係なく、自己をも含めて平等に風刺の対象にし、対象に偏見や差別感を持たない人)ではないのだ。
ユダヤ教、ユダヤ人、イスラエルをジョークや批判の対象にはしないが、反ムスリム・メッセージは、根拠も遠慮もなく発信する。西側の軍国主義的対イスラム政策を支え、その養分となっているのだ。
私が間違っていないことを示す証拠を一つ。シャルリ・エブドは、2009年に反ユダヤ主義と決め付けられた記事を書いた社員を解雇した。その人はヘイト・スピーチの罪で裁判にかけられたが、無罪の判決を受けている。
中傷に対して暴力で対応するのは、一部のイスラム主義者だけではない。1998年、テレンス・マクナリがイエス・キリストをゲイとして描いた劇『コーパスクリスティ』を発表したが、キリスト教原理主義者の「上演すれば劇場を爆破する」との脅迫があり、上演する劇場がなかった。ラリー・フリントがポルノ誌『ハスラー』に異人種夫婦の記事を載せたとき、キリスト教福音派白人至上主義者から暴行を受け、半身不随となった。他にも中絶手術をする医者の殺害、ゲイバーの爆破など、ユダヤ教徒やキリスト教原理主義者の暴行は、米社会では絶え間ない。パレスチナ占領地では、ユダヤ教徒入植者による殺害・暴行は日常茶飯事だ。
また、イスラエルのガザ攻撃を批判したスティーヴン・サライタ教授は、ユダヤ人指導者を侮辱したという理由でイリノイ大学から終身在職契約を解除された。また、ジャーナリストのクリス・ヘッジがイスラエルとイスラム国(ISIS)の類似点を指摘するという「思想犯罪」を犯したために、ペンシルバニア大学での講演をキャンセルされた。
西側社会のこういうタブーはあまりにも多くて、人々は鈍感になってしまっている。同じように反ムスリム中傷もあまりにも多いので、人々は鈍感になってしまっている。
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