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2014/9/18更新

ナショナリズムをウルトラ化させない階級闘争

酒井隆史さん(大阪府立大学人間社会学部准教授/社会思想・社会学)
インタビュー

先日、第2次安倍改造内閣の閣僚が発表された。19人のうち15人が、右翼団体「日本会議」を支援する「日本会議国会議員懇談会」に所属するという。バリバリの右翼内閣だ。海外メディアは以前から、さかんに日本の「右傾化」を懸念しているのだが、当の日本人には、自分たちが右に偏向しているという自覚はなさそうだ。はっきりと右翼的な人が、自分をニュートラルな思想傾向の持ち主だと思っていて、右とか左とかいうこと自体がもう古い、などと言っていたりもする。しかもこの間、日本の「右傾化」を懸念する海外メディアの足元でも極右の台頭が著しいのである。どういうことになってしまっているのか? 酒井隆史さんにお話を聞いた。(編集部)

 階級の本能=権力への抵抗を潰された2000年代

──グローバリゼーションへの反動として、世界全体で右翼が台頭しています。欧州ではどんな状況でしょう?

酒井…5月下旬に行われた欧州議会選挙で、イギリスでは、極右政党である英国独立党(UKIP・ ユーキップ)が第1党となり、フランスでも極右国民戦線(FN)が勝利を収め、確固たる地盤を持った政党になりつつあります。

仏・国民戦線のマリーヌ・ルペン党首は、選挙で「野蛮な資本主義」「グローバリズムによる破壊」「アメリカの経済帝国主義」といった言葉を使い、左翼政党よりはるかに激しく明快な資本主義批判を展開しました。かつて共産党が主張していた「移民を阻止せよ、失業者を増やすな」というスローガンも使っています。

その一方でレイシズム的主張を弱め、従来左翼に投票していたような市民・労働者の支持を集め、党勢を拡大しています。それのみならず、根無し草になりつつある個人のアイデンティティへの危機を煽り、不満を吸収するという旧来の保守の手法も使い、支持拡大を達成しています。

これに対して、「第三の道」路線を端緒として「リベラル化」をすすめてきた英・労働党や、仏・社会党は、全く無策のまま、負け続けています。

一方、スペインとギリシャでは、新世代のラディカル左翼やアナーキストが台頭し、極右の台頭を阻止しています。ギリシャでは第一党を獲得しているSyriza、スペインではいま注目されているPodemosです。スペイン、ギリシャは、PIGSと蔑称されたEUの劣等生で、緊縮財政というかたちでグローバル資本主義の犠牲をもっとも強いられた国々です。これらの国では、新世代のラディカル左翼が一定の勢力をもって金融資本主義を批判し、反グローバリズムの街頭行動を組織し、支持を拡大しています。

つまり、旧来の左翼が新自由主義グローバリズムにすり寄って失業者や労働者階級を代弁できなくなった国では、極右が資本主義批判と移民排撃を主張して勢力を伸ばし、逆に金融資本主義と新自由主義をしっかり批判する左翼が新たに擡頭しているところでは極右の台頭を阻止している、といえると思います。

 労働者階級の悪魔化―英・CHAVS

このような情勢から、一つのポイントを取り出したいと思います。マルクスが『資本論』で分析した「資本と労働の敵対性」という点にかかわります。敵対性をくだいていうなら、この資本主義という体制のもとでは―つまりその枠組みそのものが解体されないうちは―、決して利害の和解することのない、支配を行使しようとする勢力と、たえずその圧力にさらされる勢力がある、ということです。この和解できないことを、新しいかたちで提示できるか否かが、極右の台頭を許すか抑えるかの分岐点であると、とりあえず仮定してみましょう。

ここで、一つ参考にしてみたい本があります。オーウェン・ジョーンズというイギリスの若いジャーナリストが2012年に公刊し話題になった『Chavs』(チャヴズ)という本です。サブタイトルは「労働者階級の悪魔化」。この本は、イギリスにおいて、かつて強大な勢力をもちえた労働者階級が、いまどうしてかくも無力になり、それどころか攻撃される対象になったのか、それを、資本とメディアの戦略と関連させながら分析したものです。

「チャヴ」は、自宅の公営住宅の入口でフライドチキンを食べるジャージ姿の若者たちを揶揄や軽蔑のニュアンスをもったタームなどと説明されます(おそらく、これを聞くと、日本におけるDQNというタームをだれもが想起するのではないでしょうか)。「労働学習意欲に乏しく、したがって知識や技能にも劣り、怠け者で、自己責任のとれない者」というニュアンスです。

チャヴは、あのかつて強大な力をもっていたイギリス労働者階級を「地の塩」から「地のクズ」に転換させるのであり、このような名称とステレオタイプの作用によって、労働者が「生活保護を食い物にしている怠け者のダメな人」とされ、結果、「格差」や「貧困」はなんら構造的な不正にかかわるものではなく、自己責任をとれなかった負け組の問題として了解される、という構造です。

  「総中流」意識を破壊する「階級」の可視化を

ここでとくに注意したいのは、このような言説戦略が、階級そのものの不在化をもくろんでいるということです。ジョーンズによれば、このような言説の蔓延には、「中産階級がすべてであり、労働者階級は存在しない」といった考えが、中産階級出身のジャーナリストや政治家によって促進されていることが背景にあるらしいのです。

そうなると、あとは、それからの残余ということになる。かれらは、構造や体制の仕組みに根ざした、特定の利害をもつ(諸)勢力ではなく、個人的な問題を抱えた脱落者なのだから、そもそも問題を社会化する必要そのものがない。

ジョーンズはこうした「総中流」意識を破壊することと階級―つまり、非和解的な利害をもった集団性―の存在を認識することが、まず最初のカギとなる、といいます。これは日本にもまったく同様のことがいえると思います。

 ラディカルな資本主義批判を妨害する「緊急事態意識」

 ─極右の資本主義批判とは?

酒井…右翼は、資本主義社会の内部においては互いに利害の一致することのありえない階級対立を隠蔽したりそらしたりするのが役割ですから、アメリカ帝国主義や移民政策を批判しますが、生産諸関係の変革は語りません。しかし、現代の資本主義の深い危機を排外主義で解決するには限界があるのです。「現代の危機に対応できるのは、コミュニストだけだ」というスラヴォイ・ジジェクの言葉には、一片の真実があると思います。

しかし、3・11以降の日本の知的言説や実践をめぐる動きをみていると、ゼロ年代後半の格差批判がより根底的な資本主義批判へ深化しながら、世界の運動諸潮流との連帯に向かっていくという力よりも、国内保守との連携を模索する方向に流れる力が強いようにみえます。「再稼働を阻止するために右も左も一緒になって」というように、特定のナショナルな枠をあらかじめもうけて、自主規制の枠内で語ったり行動したりする傾向が強いようにみえるのです。そうしないと即座の効果がえられないという空気です。

その切迫感はわかるのですが、1960年安保闘争においてその後の運動を大きく分裂させた「統一と団結―その後、長きにわたって日本の運動を分裂させ、乗り越えの試行錯誤がなされてきた―の亡霊がふたたび強く浮上してきたようにみえます。そして、この亡霊の再登場を可能にしているのが、かつてのような大組織の圧力というよりは、「緊急事態の意識」のように思えるのです。ここには強力な「時間意識の収縮」がみられます。都知事選で典型的にみられた「ここで負ければもう二度と反原発にチャンスはない」という、強迫的とも感じとれる意識です。そして、ここにあるのは、パニック、時間の収縮、即効性の希求、視野の狭隘化、討議・自省など長い時間のかかる営みすべての拒否です。その拒否をもたらしているのが、「いまは緊急事態だから」という切迫感なのです。

あきらかですが、現在の時間意識の強度の収縮の直接の動因は「ショック」であり、3・11の福島原発事故という大災害がもたらしたものです。しかし、この問題をさらに深刻にしているのが、現代の資本主義の形態が条件としてあることです。

一つには、非正規、不安定雇用や短期雇用の常態化。長く蓄積され、将来を展望可能なものにする、熟練や長期雇用の時間はふっとんでしまいました。

もう一つは、即効的な効果が要求されること。短期的な利益の見込めないすべての営みが、価値下げされていること。いわゆる「日常的ネオリベラリズム」の浸透です。

さらに、もう一つ重要な点は、SNSの浸透です。日本はツイッター大国といわれていますが、そこでは140字でのやりとりがすべてです。いま人はかつて以上に文字を書いているのかもしれませんが、長い文章を書くことは本当に少なくなりました。じっくりと歴史をふり返り、みずからを省みたり、たがいの意見を吟味したりする営みは、そこではほとんど脇にやられ、ののしりあいと短時間で相手を要約するレッテル貼りが横行することになります。「社会」の形成や維持には、対話や合意、決裂などの過程をふくむ持続と蓄積の時間が必要です。皮肉なことに、日本においてSNSは、その名に反して「社会」を解体しつくし始めています。

日本においては、原発事故問題に集約されるような現在の危機は、それが放射能問題を抱えていることだけからもわかるように、拡がりも深度も途方もないものなのです。たとえ身近な一つの争点であっても、その追求が、すべての枠組みを問い返すような危険地帯に踏み入れずには終わらないような、根のふかい危機です。そのような長い見透しをはらむ時間意識を必要とする状況に、緊急状態という時間の収縮を伴う意識が対応しようとする逆説的な状況があって、われわれはその「長期の例外状態」とでもいうべき、見知らぬ状況に見合った言葉や意識をいまだ獲得できていないのではないでしょうか。

 ネット右翼とウルトラナショナリズム

たとえば、これはごく最近のことですが、自宅の近くの長い伝統のある大書店に寄ったところ、おどろいたのは、フェアーと題された棚に、中高生の夏休み向けでしょうか日本の近代文学の文庫と並んで、某宗教団体の「霊言」本がずらりと並べられていたことです。

その「霊言」本は、現在生きている人間の霊にすら語らせるというバカバカしいきわものであり、それがこのような伝統ある大書店の、書店推薦としか解釈しようのない棚に並べられているというのも信じがたい光景ですが、さらに憂鬱にさせるのが、その霊言の一つに、南京事件についての本を書いたあるアメリカのジャーナリストの霊を呼び寄せ、その「霊」に、歴史修正主義的見解にそって語らせていたことです。そしてこの本が、ご丁寧にも、カウンターのうしろのベストセラーの欄に飾ってあるのです。

このような拙劣なカルトと歴史修正主義、排外主義とが絡まり合って、しかも、由緒ある書店で君臨しているのが、現代日本の光景です。危険水域はとっくに越えたと判断していいと思います。

「現実」が「カルト」に浸食されているというのが、いまの日本だと思います。いまの日本社会の排外主義の蔓延をつらぬく論理として、ときに批評的にはたらく「他者」―それは隣国でもいいし、国際機関でも、みずからの過去でもいいのですが―の視点を排除し(それだけで最近では「反日」と呼ばれる傾向があります)、どんなに不条理でも、見たいものしか見ないという異様な閉鎖空間を構成する、という過程が作動しているように思えます。

まさに、天皇機関説を徹底的に叩きながら、「国体」という魔術で社会を催眠にかけ、国際社会から離脱し、自家中毒的にカルト化していった、戦前の超国家主義化のプロセスを想起せずにはいられません。おそらく、厳密な概念規定はこれからなされるべきでしょうが、「日本のナショナリズムは、いまウルトラナショナリズムの段階に突入した」と言うべきだと思います。

ただ、そのウルトラ化の戦前と異なるところは、ネット環境が大いに寄与しているということです。この点はさらなる検証が必要ですが、そのために、戦前戦中のウルトラナショナリズムの論理が、ある点においては突出して蔓延しているように思うのです。それは、先ほどの収縮する時間意識とかかわりあっています。その閉じた空間においては、長い時間をかけた調査と検証、蓄積、そして対話にもとづくプロセスはなく、過去は断片化と自在な引用の対象でしかなく、その都度の現在の欲望や欲求、あるいは空気によって自由に動員されるのです。

 文脈をかき乱すファシズム手法

もう一点、それはヒエラルキーを解体していくネットの働きと相関しています。インターネットは、それまでの権威のヒエラルキーを解体していきます。たとえば、ブログにアップさえすれば、だれもが学会的権威や出版的フィルターを越えて、自分なりの論考や文字作品を公にできるように。「テキサス親父」のような得体の知れない人物が、戦争にまつわる歴史学的蓄積に打撃を与えることができるとされるのも、ネットによる権威の解体があると思います。

しかし、いま日本で起きているそのような解体は、解放的な未来を開くどころか、ファシズムが革命的成分をはらんでいたのとおなじ意味の方向性をもっています。そこに共通するのは、文脈の破壊です。

権威というものは、ただ制度的な権力配分に由来するものもあれば、時間をかけた実績や信頼によって獲得されるものもあります。制度がうまく機能するというときは、それが空洞化した権威ではなく、実質的な時間の蓄積のなかでえられた威信に裏打ちされたときです。このような権威がともに解体され、そして、特定の権威の突出を押さえていた複数の権威が抑えられるとともに、その特定の権威はむしろ強化されていきます。

確かサルトルの言葉だったと思いますが、反ユダヤ主義を分析しながら、そこには差別への抗議や憤りの真摯さそのものを脱臼させ侮蔑し愉快を感じている、というものがあったように記憶します。いまの「ネトウヨ」の猥雑さにも、そのような感情が働いているように思います。いじめられっ子が真面目に怒って抗議したときに、その顔をマネしたり、まぜっかえしたりして、さらに揶揄するようないじめっ子に近いものがあります。

「文脈をかき乱す」手法は、ファシズムの典型的手法だと思います。そこでは、「一貫性がない」という批判が効力を持たないのです。都議会で女性差別ヤジを飛ばした都議が、自白会見の3日前に「ヤジを飛ばした議員は自首して辞職すべきだ」とテレビの前で語っていたのに、それを指摘されて、「記憶にございません」と開き直りました。当事者以外知りえない田中角栄のロッキード疑惑のさいの「記憶にございません」とは違っています。だれもが、当人ですら、そのあからさまな虚偽と不誠実は確認できるのですから。しかしこの出来事は、致命的なスキャンダルにすらなりませんでした。

持続の断片化と文脈の解体の日常化と、このスルーは密接にむすびついています。このことだけでもいま、日本社会は異常なのです。

 「自己責任論」に抗する綿密な階級分析を

このような夢遊病にかかったような日本社会を正気に戻すのは、一つには階級分析です。現代に直接にあてはめるには条件が違いすぎていますが、ドイツのナチズムやイタリアのファシズムに最後まで一つの層として抵抗したのが、労働者階級であったことは、忘れてはなりません。

一つの等質な社会、亀裂のない社会の神話―排外主義やレイシズムを必然的にともないます―に絡め取られないためには、@この社会の内にこそもっとも重大な亀裂が入っている、Aその亀裂は国境を越えて拡がっている、との認識が必要です。具体的な顔がなくとも、まだ見ぬ仲間、さまざまな肌の色や信仰の人間を、その世界資本主義のなかでの境遇において身近に感じとる、リアルな抽象性が必要だと思うのです。

その点で、ある種のリベラルなリアリズムがレイシズムとの関係でもつ問題があります。つまり、差別は現実に差別された対象を知ることで解消する、という楽観主義です。本当の黒人を知れば偏見も差別はなくなる、というわけです。これは、たいがい裏切られます。実際に、たとえば、ユダヤ人には犯罪者もいるし、誘惑者もいるし、高利貸しもいるし、痛い目にあった人間もいる。それは私であるかもしれないし、あなたであるかもしれない。日本のレイシズムも、ある種の実証的な形態をとります。「私はこういう事実を知っているし、それに裏づけられている」という知の形態です。たいがい、「私」というより、「私の知人」だったりもしますが、この「疑似実証的言説」こそが差別の肥沃な発生源となっています。

それに対して、一つはもちろん、より正確でより具体的な実証が必要ですが、それがしばしば、差別の口実となっている事実を確証することもあります(犯罪率の高さなど)。それゆえに、ともに重要なものは、みずからの足下を走っている断層から抽象的に飛躍する知のあり方であり、いまこそ資本主義を絶対的な限界とすることなく、トータルに世界の把握を可能にする抽象的フレームが求められているのです。徹底したリアリズムと、世界の現実を解釈するための知的道具を提供することが大事です。

 右翼的な熱狂に「冷や水を浴びせる」

日本の左翼が見失っているのは、階級の問題です。階級の問題がここまで深化しているのに、「階級」という言葉を自ら手放してしまったのです。今は、階級を可視化させることが大きなテーマです。

現代世界は隅々まで資本制に規定されており、資本制は階級格差をさらに拡大し、貧困層からの収奪を強化したり、あるいは「廃棄される人間」を生産することでしか生き延びられません。この解釈の枠組みを堅持して現実と抽象を行き来することで、枠組みをたえず見直していくことが求められていると思います。階級意識は、書物のなかにある抽象的なものではなく、さまざまな場所に仲間がいて飲んで議論し、闘争を共にするなかで創られていくものです。

ただし、ここは重要ですが、階級の分極化は階級の単純化とイコールではないということです。この分極化と単純化の短絡が、マルクス主義の自壊をもたらしました。例えば「三井・三池で総資本と総労働が激突」というような陣地戦をイメージしたような単純化された階級構造は、諸階級の情勢配置がたまさかある時代においてとる形態にすぎなかったのです。イマニュエル・ウォーラーステインのいうように、マルクスにおいて正しかったのはその長期的なトレンドの把握、つまり、階級の分極化です。ただし、マルクス自身も曖昧だったわけですが、その分極化はつねに二大階級に単純化はしないという現代の階級分析が必要なのです。

抵抗の拠点は、依然として「階級」です。体制に飲み込まれない「異物」としての闘争や抵抗はあります。われわれは、それに対応する言説をつねに生み出していくことが重要です。イメージとしては、右翼的な熱狂に「冷や水を浴びせる」です。そのようなクールな態度こそ、われわれ唯物論者のものだと思うのです。

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