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2014/8/23更新

名前のない生きづらさ

評価のまなざし
足下が崩れ去るような不安

野田 彩花

「私を評価するな」と叫んだ心。叫んだ後に、分からなくなってしまった。そもそも評価とは何なのか。私の言う「評価」とは、一体誰の、どこからのまなざしなのか。

不登校をしていた当時、私は、評価のまなざしから比較的距離を取って生きてこられたと思う。評価の天秤に乗せようにも、大人にとって私は「不登校のあの子はそもそも論外」といった、「アウトオブ眼中」な存在だったからだ。

一方の私自身も、当時の関心や不安は「学校へ行っていなくても、無事に大人になれるのだろうか」というもので、学校の内側に存在する評価のまなざしには、さして頓着しなかった。

中学時代、はっきりと「1」の並んだ通知表を前にしても、「授業もテストも受けていないのだから、当たり前のこと」だと冷静に、どこかせいせいした気持ちで受け止めていた。

もちろん、冷静でいられたのは、葛藤や喧嘩はあったものの、首に縄をつけてまで学校へひっぱっていこうとしなかった両親の理解があり、父親には安定した収入があったからだ。端的に言えば、私は守られ、恵まれていたのだ(あくまで端的に言えば、だが)。

そんな私が、評価のまなざしを意識し始めたのは、中学を卒業し、就学も就労も選ばず「身分なき存在」となってからだった。それまでは、たとえ不登校をしていても、「学生」という身分があったのだ。

私は記すべき肩書きを持たない存在となり、そのことによって自分の足元が崩れ去っていくかのような不安に襲われた。

周りを見渡せば、制服を着たあの子は学生、スーツ姿のあの人は社会人、こどもの手を引いている人はお母さん…。自分だけが「なにもの」にもなれていない気がして、ぞっとするほど怖かった。

そんな不安に追い討ちをかけるように、「ニート」という言葉が堰を切ったように世間に溢れかえった。ニートに対する報道は加熱する一方で、テレビをつければ、ニートがいかに怠け堕落した「けしからん存在」なのか、そんなニートを「立ち直らせる」ために周囲の人々はいかに努力しているか、ニートが今後増え続けた場合の「社会的損失」はどれほどに大きいか、といった特集が組まれ続けた。

私はそのとき初めて、「評価のまなざし」が自分にも向けられていることに気付いた―「そこから逃れられる人間なんて、いないに等しいのだ」と。

自分が社会的にどのようにまなざされ、評価されているのか。私は主にメディアからの情報を通して、そのことを思い知った。ニート、つまり私のような存在はどれだけ困った人だと思われているのか、社会にとってどれほど迷惑な存在に映っているのか。鋭い痛みとともに、考えないわけにはいかなかった。

「生産性」から外れた人

生産性が重視されるこの社会で、私のような「何もしていない」存在は、いない方がいいのだろうか。「生産性がない」と断じられた存在は、生きていてはいけないのだろうか、と。それはひたひたと忍び寄る絶望で、一時期の私は「生産性のない自分は、生きているのが申し訳ない」と考えるほどに追い詰められた。

そのような経験を持つからだろうか。たとえば障がいや病気を持つ人、生まれたばかりの赤ちゃん、子ども、お年寄り。

就学も就労も結婚もしていない、私のような存在。さまざまなマイノリティ性の当事者たち…。社会が定めた「生産性」から外れる人間は、ただ生きることすら許されないのだろうか。そんなふうに、考えずにはいられない。

そうして、ふいになつかしく浮かんできた事柄がある。あれは十代の半ば頃だっただろうか。私は唐突に、社会のしくみを自分なりに理解した。

「社会というのは大きな機械のようなもので、人はその機械を動かすための歯車として働いている。その報酬として賃金を得ているのだ。学校へ行くことも、いつか社会をまわしていく歯車になるための訓練のようなものなのだ」と。

それと同時に、「訓練の時点でドロップアウトしてしまった私が、どうして歯車としてうまく機能することができるだろう。私はどのように社会と関わっていけばいいのだろう」と不安になった。「歯車」になれない自分の困難さや、なぜ「なれない」と感じているのかは、いつかお話しする機会もあるかもしれない

話を戻して。私が「おかしい」と感じているのは、たぶんそのあたりなのだ。「いかに優秀な歯車であるか」ということのみに価値が集まり、評価の対象となる社会は、本来「ナマモノ」である人間を「道具」として扱ってしまっている。「優秀な歯車」「使い勝手のよい道具」であることのみが評価され、価値の高いことだとされる。そういうまなざしは、人間がナマモノであることを忘れろ、許すなと言っているようで、私にはずいぶんと苦しいことに思える。

なまあたたかくて、どろどろしていて、めんどうくさくて、いつかは腐っていく。人間って、本来はそういうものではないのだろうか。そう思うと同時に、あの頃理解したつもりになっていた「社会」は、ずいぶん限定的で、狭いものだったなぁと、今は思う。

今回の文章で連呼してきた「社会」という言葉も、実は一面を切り取ったものでしかない。私がここで言う「社会」とは、主に「会社で働く」とか、「就職して社会に出る」といった、いわゆる経済活動に属する側面のものであり、何も社会はそこだけでできているわけではない。「そのような目で見るな」と私が主張してきた評価のまなざしは、主に経済活動面からの、人が商品やモノとして扱われるまなざしに対してだったと言えるだろう。

ならば、そこから撤退さえすれば、私の生きづらさは消えるのだろうか?話はそんなに簡単なものではない、というのがいまのところの私の答えだ。

いまは家族や友人、NPOでのつながりを主に生きる私にも、そこで感じている難しさがある。次回、その難しさの根っこについて、触れられたらと思う。

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