2014/7/26更新
大阪の観光名所の一つである大阪城。徳川時代から残る櫓や石垣や、戦前に復元された天守閣は、大阪のランドマーク的な存在だ。しかし同時に、その一帯にかつての侵略戦争の遺構が残ることを知る人は少ない。
西ノ丸北門近くにある、一対の中国製こま犬もその一つだ。異国の雰囲気ただようこま犬の前で、7月5日、「7・7盧溝橋事件77周年大阪城のこま犬に不戦の誓いをたてる集い」(主催・大阪城狛犬会)がおこなわれた。(編集部一ノ瀬)
× × ×
「大阪城のこま犬は、かつての日本軍国主義による中国侵略戦争の動かぬ証拠となる戦争遺品です」(大阪城狛犬会・伊関要さん)。
曇り空から時折雨がぱらつく中、約40名の人々が大阪城天守閣を間近に望む場所にあるこま犬の前に集まった。今年は7・7盧溝橋事件から77周年の年。さらに来年には日本の敗戦から70周年という節目を迎える。この集いは、かつての日本の中国・アジア侵略の犠牲者を追悼するとともに、戦争国家化を推進し、民族排外主義を煽り立てる安倍政権によって分断させられようとしているアジア民衆との友好の絆を固める誓いの場となった。
こま犬は、白玉石(大理石)製で、台座も含めた高さは3メートル。明時代に製作された第一級の文化財だ。もともと天津市庁舎前に設置されていた。1937年7月の盧溝橋事件後の7月29〜30日、日本軍が天津市を爆撃、こま犬は台座から転げ落ちた。日本軍はこれを「戦利品」として略奪し、大阪陸軍兵器支敞(兵器補給を担当)に送られた。
こま犬は、1938年に阪急西宮球場一帯で開催された「支那事変聖戦博覧会」(大阪朝日新聞社主催)に出展された。置かれていた南京市政府庁舎の楼門のレプリカとともに展示されて人気を博し、戦意高揚に大いに利用された。
1983年10〜11月に開かれた「大阪築城400年まつり」の時に、こま犬の由来を知った市民たちが、@こま犬の中国への返還、A軍国主義・侵略戦争の戒めと、平和のシンボルとしてこま犬の複製品の建立、を訴えて1万5000万筆の署名を集める《こま犬運動》を展開。
この声に押され、大阪市は中国へこま犬の返還を申し出た。ところが中国側は、日本側の返還運動を「日本国民の友誼の気持ちの表れ」として、84年11月、改めてこま犬を大阪市に寄贈。現在、こま犬の右側には中国大使館から送られた「中日友好万古長青」(中日友好は永遠に続く)と刻まれた碑が建っている。
しかし、日本側が設置した説明板は、「日中戦争の最中に日本に運ばれ…」と侵略戦争における略奪品であるという肝心な点に触れていない。
安倍首相の靖国参拝、秘密保護法成立、沖縄・辺野古新基地建設容認、集団的自衛権行使容認…と、日本が戦争できる国づくりが進んでいる。侵略戦争のシンボルであり、また日中友好の証でもあるこま犬の前で、こうした集いが持たれた意義は大きい。
「大阪城狛犬会」では、今後も引き続き侵略戦争の犠牲者追悼と、市民の立場からアジアの平和をつくっていくための取り組みを呼びかけている。
HOME┃社会┃原発問題┃反貧困┃編集一言┃政治┃海外┃情報┃投書┃コラム┃サイトについて┃リンク┃過去記事