2014/4/10更新
当事者インタビューC 野田 彩花さん
「生きづらさ」を追う・当事者インタビューの4回目は、野田彩花さん。野田さんは小学校3年の時に不登校になるが、その原因はいじめや体罰ではなく、世間の「当たり前」に違和感を感じてしまう、というものだった。
「名前のない生きづらさ」を抱える野田さんは、居場所を求めて、フリースクール「コムニタス・フォロ」に行き着く。フォロで自分の考えやしんどさをぶつけた野田さんは、「気が済むまで悩み続ければいい」と、初めて自分を肯定してもらうことができたという。「生きづらさを無くすのではなく、抱えている疑問や価値観を生かす道を模索したい」という野田さんに話を聞いた。(文責・山田)
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小学校3年で不登校となりました。2年の時に厳しい先生のサポート役を仰せつかり、クラスのまとめ役として期待される一方で、同級生からは「先生に贔屓されている」と思われるという板挟みになりました。先生の期待に添い、怒られないように常に気を張っている状態が続き、3年になって緊張の糸が切れたのかもわかりません。「もう限界だ」と思いました。
もともと学校に馴染めなかったのですが、下校時に友達とちょっとしたもめごとがあり、母に「1日だけ休ませて」と言ったその日に、「もう学校には行きたくない」と思っていました。
不登校の背景としていじめや体罰があったわけではないのですが、幼稚園の頃から、興味関心のポイントが他の人は違う、という違和感を感じていたのが、小学校で増幅したと思います。
学校に行けなくなり、将来への不安が襲ってきました。中学・高校・大学に行くことは、大人になる唯一のレールだったので、「どうやったら大人になれるのだろう?」という不安でした。
それでも、たまに学校へ行くと疲れるし、級友から「学校は楽しいのに、なぜ来ないの?」と聞かれると、「なぜ自分は違うんだろう?」と悩んでしまいます。
なぜ自分は、世間の人が当たり前としてやっていることに疑問をもち、こだわってしまうのか、なぜこんなに生きづらいのか、という問いを延々と考えていました。この当時は、「ひとりづら研」をやっていたように思います。
外出するのは図書館くらいで、家族と墓参りにいくのも途中で気分が悪くなり中止となったこともあります。唯一の話し相手である母親に対しては、「母に受けとめられなかったら、一生誰にも認めてもらえない」という気分で、自分の考えや価値観をぶつけ、理解を求めました。
母親は、常識的価値観を信じている人だったので、私をどう扱っていいのかわからず、途惑っていました。手のかからない「いい子」だった娘が、不登校になり、急に甘えたりわがままを言い始めたのですから…。喧嘩した翌日に母親が布団から出てこない、ということもありました。
「母と娘」というより、ひとりの人間として、お互い「どうしてわかってくれないのか?」というぶつかり合いを続けていたように思います
母は、私を理解しようとはしていましたが、自分の生き方や価値観を曲げようとはしませんでした。なまじ解ったフリをされるより良かったと思います。母が私の価値観なりを受け入れて相互了解が成立してしまうと、母子関係が完結・固定してしまって、危ない依存関係となります。母との相互了解不能が、家庭の外に理解者や居場所を求めるという動機にもなりました。
21才の頃、口論の中で母から「あなたは悪意をもって私を傷つけている。もう話しかけないで」と言われました。母としては「あなたの価値観に、家族を巻き込まないでくれ」という思いもあったと思います。「母に受け止めてもらわないと、私の世界は終わる」という思いこみから、これで解放されました。ここからさらに2〜3年、悶々とした日々は続きましたが、母親からの精神的自立のきっかけになったのは確かです。
中学を形ばかり卒業しましたが、高校に入学してもすぐに不登校しそうだったので、所属と居場所を探していました。自分だけの世界は隙間がなく、窒息しそうでした。自分以外のことを考える場所が欲しかったのです。
フリースクールの存在は知っていたので、ネットで18才以上でも行ける場所を探しました。電車に乗ることもできない数年間もありましたが、「コムニタス・フォロ」に行き着きました。フォロは、圧迫感がない、自由に息ができる場所と思えました。
フォロに通い始めて間もない頃、考えてきたことや他人と同じように生きられないしんどさなどを泣きながら話した時に、「野田さんはとてもまともなことで悩んでいる。気が済むまで悩めばいいよ」と言ってくれた人がいました。それまで他人に悩みを語ると、「そんなに悩むことじゃないよ」とか「じゃあ、こうしたら」というように、「悩むこと」は、早く抜け出すべき状態と捉えられてきました。ところがフォロでは、身動きがとれなくなっても、悩み続ければいい、と初めて肯定されました。
自分の考えていることをうまく他人に伝えられない、伝えても理解してもらえない数年間を過ごした後だったので、「好きなだけ悩みなさい。あなたの本業は悩むことだから」と言われ、苦しさは軽くなりました。
親以外の他人とぶつかり合うのも、フォロが初めてでした。「もう話しかけないでくれ」と言われたこともありました。でも「話しかけない」は、相手を自分の中で殺してしまうことではないのか?と思うので、私は話しかけます。相手はとても途惑いますが、そんなやりとりを続けています。
自分の価値観ができてくる、親と対立する、親に受け止めてくれと迫る、しかし叶わない、悲しい、じゃあどうしたらいいんだ?という葛藤の中で、コムニタス・フォロの仲間と意見交換を続けていたように思います。
わけがわからなくなって泣きわめくこともありましたが、「他人を傷つけ、傷つけられることからは逃げられない。そこを含めて理解する道を探すのが大事だ」と実感しました。
「悩むこと」と「苦しむこと」は違うことだ、という気づきもありました。違う価値観に出会うと、どう扱っていいのかわからなくて苦しいのですが、「なぜ苦しいのか?」を客観視できると、自分が悩んでいることやその本質の部分に気づくのです。
生きるうえで、苦しんだり傷ついたりは避けられないのなら、自分の納得できるやり方で生き抜きたい、と思うようになりました。
それでも、母親とのバトルは続きました。以後、半年に1度くらい家出をくり返していましたが、話を聞き、泊まる場所の相談にも乗ってくれる仲間がいたことで、前に進むことができたと思います。自分の価値観や方向性が決まれば、理解してくれる人は親以外にも世間にはいっぱいいるんじゃないか、と出会いの実体験をとおして思えるようになりました。母親の価値観を相対化するとともに、自分の悩みも相対化できるようになりました。
自分は仕事もしていないし、貧乏で何もできないのですが、必死で考えようとしていることを認め、応援してくれている人がいることを知ることができたのは、大きな変化です。ひとりではないことを実感させてくれたからです。
自分が考えることをやめなければ、他人から学べることはいっぱいあることもわかりました。
たぶん私は、人間が好きなんだと思います。自分の気持ちと向き合って、言葉にするということが、私にできる唯一のことです。根っこのところで、自分も他人も信じているんでしょう。人が何を考えているのか興味があるし、できれば核心部分にふれたいと思います。それならまず、自分のそれを言葉にして語らないと、交流はできません。
重荷である生きづらさを軽くしたいと思って「づら研」を始めたのですが、生きづらさは自分の可能性を孕んでいるのかもしれない、と思うようになっています。無感覚になって今の社会に適応することで「生きづらさ」を無くすのではなく、今抱えている疑問や価値観を生かすことができる、別な道を模索したいと思っています。
「頭は自分のものだ」という実感があるのですが、身体に押し込められていることに不自由さを感じています。「男性の体でありたい」と思うわけではなくて、容れ物である身体そのものに対する違和感です。自分のイメージは、頭でっかちの「クラゲ型宇宙人」です。
づら研を続けてきましたが、男性がいては言い辛いと思う女性メンバーがいるし、他の女性は身体をどう受け止めているのか聞いてみたい、という動機から、「女子づら研」を呼びかけました。他の女性たちは、身体そのものへの違和感ではなく、女性として眼差しを向けられることにしんどさや葛藤を抱えていることがわかりました。
私は、引きこもることによって、学校や社会で「女」として観られ抑圧される機会に出会わずにすんだのかもわかりません。
自分の経験に照らしても、しんどいことを「しんどい」と言えない苦しさはわかります。自分が蓋をしてしまって気づいていない生きづらさがあるかもしれません。そうした気づきを生む場所であって欲しいとも思います。
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※「コムニタス・フォロ」は、4月から名前もあらため、「なにものか」でなくともよい場所「なるにわ」となりました。
なるにわ BLOG
大阪市中央区船越町1─5─1
電話・06─6946─1507/FAX・06─6946─1577
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