2014/2/27更新
イスラエル在住 ガリコ 美恵子
アフリカ難民排除デモに参加して「アフリカ難民はイスラエルの癌である」と発言したことで有名なリクード党のミリ・レゲブ(*注@)が1月に提出した「ヨルダン渓谷と死海北部をイスラエルに合併させる」議案が、国会で圧倒的な賛成票を得た。ヨルダン渓谷と死海北部の面積は、西岸地区の3分の1を占める。オスロ合意により、その78%の面積がユダヤ人専用水源地、ユダヤ人専用住宅および農地、イスラエル軍基地、軍演習地、軍閉鎖地区=パレスチナ人立ち入り禁止地区となっている。各地で小さな飛び石のように取り残されたパレスチナの村々が、この決議によりイスラエル領となり、8万人が賠償なしで農地・家屋という生きる基礎を失うことになる。
また、ヨルダン渓谷で採れる水の3分の2はこの地区に住む1万人のユダヤ人に供給され、残り3分の1が西岸地区全土のパレスチナ人25万人に供給されることになる。このため、何千年と暮らしを立ててきたパレスチナ農民の水不足は深刻である。「土地所有権がイスラエル政府に移ったので、出て行け」という一方的な強制退去命令を受け、家屋や家畜小屋を軍に破壊され追放された村人は各地であふれるばかり。先祖から受け継いだ農地を捨てることはできない」農民は、軍による攻撃を受け、逮捕されて刑務所行きになる。
ヨルダン渓谷南部のエイン・ハジラは、かつて修道院がある小さな村だった。土地の所有権は、ギリシャ正教教会が持っている。周囲をユダヤ専用農地に囲まれており、数カ月前にイスラエル軍に村が破壊され住民は強制退去。無人村となった。ところがヨルダン渓谷および死海北部がイスラエル領になる国会決議が発表された直後の1月30日、渓谷で新たに36件の家屋が壊され住民が強制退去させられたことをきっかけに、抗議活動が呼びかけられた。「エイン・ハジラに集合せよ!」との連帯運動の呼びかけに対し、軍の攻撃から避難していた修道院の僧侶は、土地の使用許可をエイン・ハジラの活動家に委託した。赤十字からはテントや救急用品が支給され、追放されていた地元住民が抗議に加わり、約300名が自家発電機や水、食料を持参して、抵抗運動=「地球の塩」を開始した。
この運動に参加したへブロンやビリン村のパレスチナ人活動家たちは、動画や写真をフェイスブックで毎日更新し、イスラエル人活動家は詳しい解説入りで活動家サイトに多くの写真を掲載した。私は彼等の勇気ある行動を誇らしく思う一方、いつ軍に酷い目に合わされるかとひやひやしながら、日々の状況をネットで追った。
活動家たちは椰子の木で屋根や扉を修復し、夜は火を囲んで座り、限られた食料を分けあって、現在行われている和平合意について話し合ったり、ダプカ(パレスチナ人の民族踊り)を踊ったり、分離壁に関するドキュメント映画を上映して朝まで過ごし、昼間は家に帰って眠り、夕方またエイン・ハジラに戻る、という生活を繰り返した。
2月5日、「数百名におよぶ軍の攻撃があり、テントが壊され、けが人数名、逮捕数名」とニュースに出たが、翌日も彼等はエイン・ハジラに戻り、抵抗運動を続けた。
村が再生されて7日目の2月7日、夜中の1時半にイスラエル軍は大規模な攻撃をしかけてきた。テントで眠っていた女・子どもを含むエイン・ヒジラ村の住民たち200名は兵士に殴られ蹴られ、火に追いやられ、軍の輸送車に乗せられてジェリコ市内に運ばれた。パレスチナ・テレビのカメラマンは屋根から落とされ、救急隊員の一人はライフル銃で胸を殴られた。数名は逮捕されたがジェリコ市内のA地区で解放された。その後軍は、付近一帯を1カ月の軍閉鎖地区に指定した。
活動家たちは「イスラエルによる略奪、追放政策に、地球の塩となって反対運動を続ける」とのコメントを発表している。軍に攻撃されるとわかっていながら抵抗運動を続ける彼等は、本当の勇気の持ち主である。
エイン・ハジラ村がイスラエル軍の手に落ちて数日後、息子の兵役終了式参加のために、レバノン国境付近の陸軍基地に行った。始発のバスでキリアット・シュモナまで行くと軍の送迎車が待っていて、ユダヤ開拓者たちが百年ほど前に農業を始めたがベドウィン賊に攻められ、最後は全員自決したと伝えられる観光名所=テル・ハイ博物館に案内された。
案内係は国民サービス(兵役に着く代わりに政府関係のボランティアをすること)の少女で、劇的な話しっぷりはプロ級だ。開拓時代のユダヤ人が周囲のアラブ民族に襲撃され、強盗にあってばかりいたこと、身を守るための武器を少ししかもっていなかったために全滅したという話が映像を交えて美化されている。ユダヤの結束と愛国心を強め、戦欲をそそり、誰でも簡単にシオニストになってしまいそうな巧妙な洗脳教育である。
再び車に乗り、基地へ案内された。林を抜けて草原を15分ほど走ると、電流金網フェンスが見え、見張りの兵士が門を開けた。門から半キロほど進むと戦車や軍用ジープが並ぶ駐車場に到着した。
式は基地の食堂で行われた。息子に隊長を紹介され挨拶をして席に着くと、軍曹から「3年間の厳しい兵役任務をやり遂げた」ことをねぎらうメッセージとともに、各兵士の写真がスライドで流れた。「厳しい日々をよく耐えた、食料の補給もなく睡眠をとる時間もなく何日も重い荷物を担いで山越えをしたり……」。一方のパレスチナ人がイスラエル占領によって受けている苦難を知らない人が聞いたら、兵士たちに敬礼したくなるような美談である。イスラエル軍に批判的な私でさえ、「息子はそんな酷い目に合っていたのか」と涙ぐんでしまったほどである。息子は、レバノン領の穴の中で数日連続待機してレバノンから国境に近づく人を見張る時、尿はプラスチックの中に入れて蓋をし、排便はナイロンを敷いたヘルメットの中にしてナイロンをきつく絞めて基地に持ち帰っていたそうだ。
レンタカーに荷物を積んで基地を出る頃には、日が暮れていた。途中でベイト・シャーンという町に住む、兵役仲間の家に立ち寄った。彼は息子より一足先に兵役を終えてジニンの検問所で働いている。兵役あがりの若者の多くは大学に行く費用をためようとして「稼ぎの良い仕事」に就く。彼の月給は38万円、平均収入よりかなり高く、他の職種ではこんなに稼げない。
イスラエル北部からエルサレムに行くにはヨルダン渓谷を南下するのが近道である。運転しながら渓谷の暗闇に煌々と光る明かりを指して息子は言う、「ここは基地だらけなんだよ」。明かりがあるのは基地または入植地だ。パレスチナ民家の明かりは弱くて遠くから見えない。
「知ってるよ。この地域一帯はC地区とされている(*注A)。今後はイスラエル領となるかもしれない。『ヨルダン国境の警備、安全のため』っていう理由だけど、パレスチナ人を追放するなんて酷いよ」と私が言うと、息子は喧嘩になるのを避けてか口をつぐんでしまった。
イスラエルの若者は、幼稚園から洗脳教育を受け続け兵士となる。彼等は任務に従うことに精一杯で、人道からそれたことをしていても気がつかない。ドロの中を空腹で3日間も眠らず歩き続けたりしなければならないのは、イスラエルが周辺諸国と真の和平を結ぼうとせず、パレスチナの土地や財産資源を略奪し続けていることが原因なのであり、どんなに莫大な軍事資金を使って守りを固めても、略奪や攻撃をやめなければ何にもならないのだということに気づかなければならない。
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