2014/2/1更新
名護市 稲垣 絹代
1月19日投票日は、暖かい1日であった。本部町では日本一早い桜祭りが始まっており、皆、遊びに行って投票に行かないのではないかと思うぐらい、空が晴れ渡っていた。
私は、センター試験の役割はないが、仕事が山のようにたまっており、大学で夜まで仕事をしていた。22時頃に大勢が判明と新聞報道されていたが、時々ニュースを見ていると、投票率が前回より低い。いくら期日前投票が前回より多かったと言っても、投票率が低いと心配である。
開票前の20時45分のNHKニュースで、当日の出口調査の結果では稲嶺氏優勢、と報じられた。やったー。もう仕事なんかやってられない。市民選対の皆は、18時頃から集まって結果を見守ると言っていた。東江にある市民選対に行く途中に末松文信氏の選挙事務所があり、通りかかると、選対本部長の島袋吉和氏が事務所に入るところであった。報道陣に囲まれているが、苦虫をつぶしたような顔であった。
21時過ぎに市民選対に着いて、「もう当確が出たんですか?」と聞くと、皆に「とっくに出ているよ。沖縄タイムズの号外も出ているよ」と、壁に張られた号外を見せてくれた。選対本部からのテレビ中継が始まると、皆がテレビの前に集まり、稲嶺さんの決意を聞き、選対本部の万歳三唱とともに何回も万歳三唱を繰りかえした。
思えば、12月ごろから、稲嶺選対本部を中心に、統一連選対や市民選対などが連絡を取りながらそれぞれの立場で取り組みを始めていた。大学の中でも、市民を対象に反戦の映画会や反基地の一人芝居が上映・上演され、会場に来ていた稲嶺市長が紹介されたり、名護市の福祉センターでも全国上映で話題になった「標的の村」の上映会が行われた。この時に多くの若者が参加しており、カンパで集まったお金が稲嶺選対や高江の運動に寄付された、と聞いている。
選挙公示日の1月12日から毎日、両陣営の宣伝カーや運動員の幟が町のあちこちで交差していた。大学の正門前でも毎朝、「戦争に行かずに、選挙にいこう」と書かれた幟をもった青色ジャンパーの人達が手を振っていた。ある時は、自転車に「ススム」と書かれた幟をたてて、3人ぐらいの若者が大学の構内を走っていた。
期日前投票の会場前では、不正投票行為監視団と大きく看板が書かれた前で、数人の人達が1日中座り込んで、企業ぐるみの選挙活動を監視していた。前回の選挙では、明らかに仕事中の多数の従業員を投票場に連れてきた企業ぐるみの選挙活動が目立っていたそうだ。しかし、今回そのような傾向はほとんど見られなかったそうである。監視活動のおかげだろう。
私は仕事が忙しく、公示日朝の選対本部の出陣式と屋部公民館前の演説会に応援に行った。最終日の夜30分だけ、幟を持って道路の車や歩道の人達にお願いをして手を振っていたが、反応はすごく良くて、「もしかしたら勝てるかもしれない」と思った。家の郵便ポストに入るチラシも、稲嶺さんの方が3倍ぐらい多かった。大学の中では、誰が市長になるかでこれからのトップの人事に関係してくる。大学の教職員も、地縁血縁でうかつに選挙の話はできないようだ。
しかし今回は、学生達に「名護の未来だけでなく、沖縄や日本の未来がかかっている大事な選挙だから、住民票のある人はみんな行こうね」と呼びかけた。毎年6月には、1年生の学生40人をつれて辺野古の海を見に行っている。県外の学生ほど、こんなきれいな海を埋め立てるなんてひどい、と言っていた。地元名護の学生が「投票は行くけど、基地は必要でしょう」と言っていたらしい。「基地があるから守られている、経済が発展する」と本当に思わされている人が、少なからずいるということだ。
しかし、今回は勝った。仲井眞県知事の埋め立て承認のニュースのおかげで、絶対に勝たなければと、多くの人達が気を引きしめた。知事や宜野湾市長、自民党の国会議員達が応援すればするほど、お金の話しかしない応援演説のおかげで、名護の人々は、稲嶺市長の4年間の真面目な政治姿勢と未来の夢を描いた政策ビラや演説内容に納得し、名護市民の誇りをかけて「負けてたまるか」、と頑張ったのだろう。日米の政府を相手に勝ったのだ。
結果がわかる前に、「勝っても負けても今までどおりの活動を続けていくだけだ」、と辺野古のテントの人達が言っていた。国の圧力はますます強くなるだろう。海上での闘いがまた始まるかもしれない。しかし、今までのような闘いではない。名護市民や沖縄県民、日本中や世界からも注目されている2014年の辺野古の海である。
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