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2013/9/5更新

【連載特集・「生きづらさ」を追う】A

自分の闇に光を当てなきゃ死ねないどころか生きられない

当事者インタビュー  山村礼子さん(42)

「にゃき」こと山村礼子さんは、42才。「2度目の成人式をやっている真最中」と笑う。3才の頃から酒乱の父親から暴力を受け続けた。家を出て16才で働き始めたが、付き合った彼氏がDV男。6年間同棲の後、手切れ金を払って別れたものの、孤独感から薬物依存となり、注射器と薬物を持参して警察に自首。執行猶予の判決ながら、薬物依存の治療のために精神病院に入院した。拘置所に入って初めて「社会に救われた」と実感したという。

虐待と暴力のなかで「一人で生きてきた」山村さんが、社会とのつながりを初めて実感できたのが拘置所―こんな重い半生を生きながら、淡々と落ち着いた語り口で、明るくしゃべる姿に、聞き手のこちらがドギマギしてしまう。

山村さんとは、「いきづらさを考える当事者研究会」で出会った。保育ボランティアスタッフとしてSEAN(保育サポート・ジェンダーフリー)に関わりながら、自らの生きづらさと向き合い、他者とのつながりを見いだそうとしているそうだ。「2度目の成人式」とは、42才にして再び生き直そうとする覚悟と不安なのかもしれない。(編集部・山田)

※ ※ ※

父親の暴力は、3〜4歳の時に始まりました。父は、九州から1人で大阪に来て、中卒で建築士の資格を取った人です。酒豪で気っぷのいい人だったようですが、飲んで酔っぱらうと、母も私も殴られていました。豪腕の父が本気で殴るので、体に痣がよくできていました。

母もそんな父に逆らうことができず、結局私が6歳の時に離婚して、父と兄との3人暮らしになりました。小学2年の時「殺さないでください」と土下座して謝ったことがあるのですが、一笑に付されました。酔った時のことは記憶がないのです。酔うと自覚がなくなる以上、暴力は続くことになります。あの時の感情を今から思うと「絶望」というのでしょう。

父の死で自活の始まり

15才の時に父が死亡しますが、悲しいという感情は湧きませんでした。「清々した」という気分です。兄は以前に家出していたので、独りになりました。家にはお金もなく家賃も支払えないので、西成に行き、喫茶店に飛び込んで事情を話し、住み込みで働かせてもらうことになりました。自立生活の始まりです。

1年ほど働いて少しお金も貯まったので、アパートを借りることになりました。不動産屋に行きましたが、何も知らなかったので、住民票の作り方から敷金の工面など、一から教えてもらいました。生きるための「社会常識」を喫茶店のマスターと不動産屋さんから教えてもらったことになります。初めて安心して眠れる自分の部屋ができました。そのうち遊びも覚えて、お金が欲しかったので、ホステスとして働き始めました。稼ぎも多くなり、少し自信もできてきました。

DV男との同棲

17才の時に、友人の家に遊びに行って知り合った男と同棲を始めました。彼とは赤い糸で結ばれた「運命の人」だと感じましたし、初めてできた「家族」だと思いました。彼は、昼間部屋でゲームをしたり漫画を読んだりして過ごし、私の帰りを待ってくれていました。

彼もまた、実母から無視という虐待を受けていたようです。ひきこもりに近いニート状態で、他人との会話はほとんど私とだけです。その分、私が友達と会ったりすると不機嫌になり、殴るようになりました。別れ話を持ち出すと謝るのですが、「俺はお前のことをこんなに思っているんだから、俺だけを見ててくれ」と懇願し、また殴る─という繰り返しです。彼にとって私は、母親代わりだったのかもわかりません。

私は、大恋愛をしているつもりで、仕事が終われば真っ直ぐ部屋に帰り、彼の機嫌を損なわないように部屋で過ごす、という生活でした。友人と会うのも、必ず彼が同席できる相手とだけでした。これでいいのか?と疑問はありながらも、別れ話をすると説得され、我慢し続けました。

薬物依存から逮捕・入院…安心して眠れた拘置所

6年間の同棲の後、手切れ金を渡して別れ、まず自分を取り戻そうとしましたが、「何をしたいのか?」もわからないのでした。相手の望むとおりの生活が続き、「私」がなくなっていたのでしょう。DV男とはいえ他人から深く認められ、必要とされ、やるべきことがあったのに、別れてやっと解放されたと思ったら、自分が無くなっていたのです。

生きている実感がもてず、何をやっていいのかもわからず、薬物に手を出すようになりました。同棲時代も時々一緒にやっていましたが、彼がいなくなって、歯止めがきかなくなり、孤独感もあって薬物に依存していきました。月に100万円位稼いでいたのでお金はあるし、罪悪感は全くありませんでした。

そのうち仕事にも行かなくなり、すぐに経済的にも行き詰まりました。強烈な幻覚症状が出始め、さすがに「やばい」と思い、注射器と覚醒剤をもって警察に自首しました。でも、その時は家に帰され、逮捕されたのは3カ月後でした。「ほっとした」というのが実感です。

「刑務所は最後の福祉施設」と言われますが、その意味がわかります。父親の暴力から誰も守ってくれず、同棲相手の暴力があっても、食べるために働いてきました。ところが、拘置所では安心して眠れ、何もしなくても3度の食事が出てくるのです。私にとって最初のセーフティネットが警察と拘置所でした。

懲役1年、執行猶予3年の判決でしたが、拘置所を出ても住む部屋もありません。途方に暮れて、睡眠薬を処方してもらっていたクリニックを訪ねると、医師から入院を勧められました。病名は精神衰弱です。1年半の入院後、民間の入院保険金が入ったので、当面の生活費が確保され、主治医の紹介で地域生活支援センター「援護寮」に入所しました。

初めての結婚と離婚

生活も落ち着いてきたので、31才の時に定時制高校に入学しました。高卒の資格があれば、普通に働けると思ったからです。4年後、卒業して、就職活動を始めると、契約社員として弁当を盛りつける仕事が見つかりました。

この頃、結婚相手となる男性と知り合い、3年半の同棲の後、婚姻届を出して結婚したのですが、半年で破綻しました。結婚直後から相手の統合失調症が酷くなったからです。知り合った時は、芸術家のようにエキセントリックなことを言う彼に惹かれたのですが、今から思うと、統合失調症の典型的な症状でした。

でも、この半年間はとても充実していました。彼とは法律上も「家族」となり、症状を抱えた彼を支える、という自分の役割と使命がはっきりしていたからです。彼のためだけに生きることができた3カ月でした。

2度目の人生を生き直す

39才で離婚した時に、周囲の人たちから「今からあんたは、幸せにならないかん」という言葉が体に入ってきました。これまで「一生どうしようもない」と思っていたのですが、心から「幸せになろう」と思えるようになりました。私は、自分が弱くてどうしようもない存在なので、そんな人を見ると感情移入してしまうようです。他人のためになる仕事をと思い、特養で働きましたが、過労で倒れました。次に紙芝居で児童養護施設を回りました。

その後、SEANとの関わりができ、デートDV予防教育で自分の体験を話す機会を与えてもらったり、半生をとらえ返し、発信していく役割に目覚めています。私は、39才で離婚して、今2度目の人生を生き直しているのだと思っています。今は、生活支援・ジェンダーフリー教育部門のスタッフや障がい者のガイドヘルパーなどをしています。始まったばかりですが、「自分の闇に光を当てなきゃ、死ねないどころか生きれない」とも思うようになっています。

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