2013/6/25更新
社民党 山城 博治
編集部…反基地運動を始めたきっかけは?
山城…私は1952年生まれで、もの心ついた時には基地だらけでした。父親は防衛隊(予備役の在郷軍人が組織した義勇兵部隊)の生き残りなので、戦争の話を聞いて育ちました。また、沖縄人である叔父・叔母からも、「戦争だけは許せない、あっちゃならないことだ」と、耳にタコができるほど教えられました。
1965年、中学に入学しましたが、嘉手納基地に配備されたB52の撤去運動と復帰運動が重なって、教師も含めてデモが怒涛のように盛り上がる頃でした。先生と一緒に那覇にデモに行き、復帰行進で与論島や辺野岬に行くことが当たり前の学生生活でした。
高校では、社研に入部し、生徒会活動も掛け持ちでした。高1で生徒会副会長、高2では生徒会長として、基地問題に取り組みました。69年の沖縄返還協定締結は、高校2年の時です。毒ガス問題(本島中部の知花弾薬庫で毒ガス漏れの事故が発生したが極秘扱いとなった)、B52問題など、次々起こる問題に抗議の声をあげ続ける毎日でした。
高校の後輩が米兵による傷害事件の被害者になる事件もありました。全県の高校生を集めて抗議集会をしました。当時の沖縄は軍事植民地で、横暴な高等弁務官と兵士に住民が非暴力で決起していくという時代でした。
沖縄返還協定については、返還の名を借りて現状を固定化するものだとして、同級生200名とともに1週間の大ハンガーストライキをやりました。沖縄が怒涛のように渦巻いていた60年代後半のなかで、多感な青春時代を生きました。時代が過激だったのです。
2004年、沖縄平和運動センター事務局長に就任した時は、辺野古移設工事阻止に向けた実力行動の真っ最中でした。4月中旬、防衛局が工事を強行したため、私は辺野古に張り付きました。毎日のように辺野古に通い、時には泊りこんでの阻止行動でした。
当時の沖縄は、沖縄社会大衆党・共産党・社民党の3党で革新共闘をつくっています。これを中心に様々な反基地団体が共同して「基地の県内移設に反対する県民会議」を形成し、共同代表のひとりが山内徳信さんでした。山内代表もずっと張り付いておられましたが、椎間板ヘルニアの手術直後で首も曲がらないのに、車を運転して辺野古に通っておられました。
痛々しいほどの山内さんの姿を間近で見て、こんなに凄まじい男なんだと初めて知り、「この人を守らくてはならん」と思いました。
2004年の辺野古闘争以来、山内さんとは県民会議共同代表・平和運動センター事務局長としての付き合いというよりは、闘いの偉大な先輩としてお付き合いさせていただいています。
しかし、私が現地に張り付くことについて、平和運動センター内では強い反対もありました。「事務局長が一つの現場に張り付いていたのでは、組織が回らない。辺野古から戻って来て事務所に座れ」との批判でした。
でも私は、そもそも現場に立ちたいと思ったから、事務局長就任を了解したのです。机に座って会議をしてあれこれの指示を出すというのは、性に合わないのです。
那覇から辺野古までは1時間以上かかるし、高江へは2時間半位かかります。労働者が日帰りで行けるところではないので、私のように任務を背負っている人間が行くしかなかったのです。大衆運動は「できる範囲でやる」のが、一般的スタイルです。でも、大衆運動の弱いところを支える役まわりも必要だと思ったのです。
「平和運動センター」は、その名前が示すとおり、ムーブメントを起こす場所です。問題が起こり、声をあげる人がいなければ、人を集めて阻止線を張る。助けてくれと言っている人がいれば、行って支援をする。これが運動センターの任務じゃないか、責任を果たすってのはそういう意味じゃないか、と訴えました。事務所に座って、皆と会議をして指揮だけで終わるんだったら、俺はやめる。「俺は実践したいんだ」ということです。
結局「この男は頑固な奴だ、好きにやらせろ」ということになったようです。でも、事務局長が職場を放棄して、1年も2年も現場に張り付くなんて、沖縄以外ではあり得ないと思います。
ただ結果としては、事務局長が車にカップラーメンと簡易コンロを積み込んで山に張り付き、権力と向き合っている姿を示すことは、影響を与えたと思います。平和センターも「事務局長が頑張っているんだから、顔でも見に行くか」となり、一般労組員も来てくれるようになりました。
実際、高江現地は農業しか知らないお年寄りが大半で、権力との激しい攻防を担うには荷が重すぎるのです。現地の力量に任すことは、結果として闘いを放棄することにつながると思っていました。「闘いの陣形がつくられるまでは、好きにさせてくれ」と言って張り付いたのですが、実際は1年どころか5年も6年も張り付いていたのですから、かなり無理をしたのは事実です。
編集部…現場で闘ってきた山城さんが国会に行くと、現場の力が削がれる、という意見も聞きますが。
山城…そうした声は、光栄に思っています。私を理解してくれてることですから、素直に嬉しいです。何年かの山ごもりの闘いで苦労はしましたが、闘いに責任を持とうとする姿勢は、共感を呼び拡がるのだ、と確信できました。
オスプレイ配備反対の普天間での座り込み闘争も、いつ機動隊に排除され逮捕されるかもしれないので、組織の指図だけでは動きません。現場で培ってきた仲間との信頼感や、現場で声をあげ続けてきた実績への評価だと思っています。
そうした信頼関係は壊したくはないし、それなしでは政治闘争も闘えません。そういう意味でも、運動の最前線に立ち続けなければならないと思っています。
編集部…右翼が沖縄に登場しています。どう観ていますか?
山城…彼らなりの危機感の反映だと思います。自民党が擁立した県知事も市長も、沖縄県内移設反対。議員たちも保守革新を越えてオスプレイ反対で声を揃えているので、東京にいる保守系・右翼グループからすると、沖縄が丸ごと反日で固まろうとしていると見えるのでしょう。
政府・自民党は、必死で「沖縄の中にも異論はあるし、政府の主張と同調する議員もいるんだ」と楔を打とうとしています。仲井間知事に振興策を提示し、現に2人の国会議員が県内移設派になりました。彼らはオール沖縄の声を嫌がっています。右翼の登場は、危機感を募らせて、中国の脅威、北朝鮮の脅威を煽り、米軍抑止力の必要性を言いたいのです。
編集部…本土と沖縄の温度差を感じますか?
山城…基地の前に座り込み、機動隊にゴボウ抜きされて逮捕者が出ても、本土のマスメディアは報道しません。「沖縄を米軍基地から解放してほしい」と陳情団が上京してデモをすれば、「反日勢力」との悪罵を投げつけられ、怒りや憎悪の感情が返ってくるというのを見れば、さびしさを感じざるをえません。
しかし、全国いたるところに沖縄ファンがいることも事実です。まともな日本人として扱われてこなかった沖縄の歴史と人々に対する限りない同情と連帯を示してくれるたくさんの人がいることも、感じています。こうした人々との連帯が私たちの希望です。
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