2013/6/2更新
富田 英司(宜野湾市在住)
今年も沖縄の本土復帰41年目、36回目の「5・15平和行進」が雨にも負けず3日間取り組まれた。最終日の5月19日、「5・15平和とくらしを守る県民大会」が宜野湾海浜公園野外劇場で開かれ、全国から約3500人が結集した。
今年の平和行進は11日に宮古コース、15日に八重山コースが行われ、17日から19日の3日間での沖縄本島コースは、東コース(辺野古〜宜野座〜キャンプ・ハンセン〜キャンプ・コートニー〜うるま市〜嘉手納基地〜石平米軍司令部〜宜野湾海浜公園)、西コース(読谷村〜米陸軍トリイ通信所〜嘉手納基地〜キャンプ・ズケラン〜キャンプ・フォスター〜宜野湾海浜公園)、南コース(那覇市〜那覇軍港〜自衛隊那覇基地〜糸満市〜ひめゆりの塔〜平和祈念公園〜南風原・陸軍病院壕跡〜嘉数高台〜宜野湾海浜公園)の3コースに約1300人が参加した。
例年は、最終日のスタート場所は宜野湾市役所駐車場になっていた。この駐車場に3コース全ての参加者が結集し出発式を行い、米軍普天間飛行場のまわりを行進しながら宜野湾海浜公園に集まるのが、慣例であった。
ところが、今年は宜野湾市役所(佐喜真淳市長)が、平和行進団体に駐車場の使用を拒否した。理由は同日午後、隣の宜野湾市民会館大ホールで「沖縄県祖国復帰41周年記念大会」(講演者は櫻井よしこ氏)が開催され、駐車する車が多く、駐車場を貸すことができない、と言い出す。
私も仲間と共に最終日の南コースに参加。嘉数高台から宜野湾海浜公園まで参加者と共に平和行進をして、午後2時からの「県民大会」に参加した。
大会が始まった頃は小雨であったが、突然バケツをひっくり返したような土砂降りの大雨となり、参加者たちはずぶぬれになりながらも、登壇者の挨拶に耳を傾けた。あまりの雨の激しさを考慮し、登壇者5人の発言を省略し、終了を30分早めた大会となった。
今回の県民大会で一番注目を集めたのは、韓国からの参加者2名の挨拶であった。1人は、韓国人元「従軍慰安婦」の金福童(キムポクトン)さん(87歳)。日本維新の会の橋下徹共同代表(大阪市長)の問題発言もあり、注目を集めた。
『「幼い少女が夢を花開くこともできず、性奴隷となり、踏みにじられたことを考えてほしい。朝から夕方まで、一日に何十人もの兵士の相手をしなければならなかった。そんな生活を8年強いられた。このような少女がいたことを皆さんは知っていたか」と問うと、会場は静まり返った。「日本の政治家が憲法を変え、戦争ができる国にしようとしている。皆さん、頑張って声を上げ、平和な国を造ってほしい」と訴えると、会場からひときわ大きな拍手が湧き起こった』(5月20日付、「琉球新報」より)
なお、韓国人元「従軍慰安婦」の吉元玉(キルウォンオク)さん(84歳)も、広島県福山市での講演会で自身の体験を語っている。
もう1人の韓国からの挨拶は、韓国・済州島で2007年から始まった米海軍基地建設反対運動の先頭に立ち、体を張って闘っているソン・ガンホさん(「開拓者たち」代表)。
『米軍基地被害に苦しむ韓国の市民たちと共に、沖縄に来た。沖縄から必ず米軍基地を追い出して、二度と戦争のない、非武装の島にしてほしい。そして、沖縄、台湾、済州島を結ぶ海を、非武装の平和な海にしてほしい』(5月20日付、「琉球新報」より)
武力による紛争解決を選ばない。韓国、沖縄、台湾で非武装平和のネットワークを築き、海を越え、手をつなぐ「非武装の三角地帯」を築くことを提起した。
15日の沖縄や韓国の米軍基地問題を考える「第6回東アジア米軍基地問題(環境・平和)国際シンポジウム」に韓国から7名で参加し、闘いの現場である辺野古や高江などを訪問し、現地の市民グループとも交流を重ねた。
最後に、毎年この「5・15集会とデモ」は、なぜか大雨に見舞われることが多い。
41年前の1972年5月15日、日本政府主催復帰記念式典に抗議する集会が与儀公園で開かれたが、その日の土砂降りの激しさは、今でも「この雨は沖縄の涙である」と語り継がれている。
那覇市の与儀公園で開かれた今年の5月15日「政府の沖縄施策糾弾!5・15集会とデモ行進」(憲法の改悪を許さない!復帰41年5・15平和行進)も、41年前の復帰の日を再現したかのような、豪雨と雷鳴の中での開催となった。
沖縄にとって、41年前の復帰は「復帰ではなく、再併合であった」との思いが強い。真の「主権回復」を求め続ける沖縄の闘いは続く!
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