2012/12/20更新
人権と教育を考える会 川平俊男(宮古島)
1972年、日本復帰後、琉球は「沖縄県」となり、私たちは、琉球人から「日本国民」となった。こうして就職や進学の際、必ずもっていなければならなかったパスポートは必要なくなった。
第2次大戦末期、大日本帝国沖縄県は、日本本土防衛の盾となることを強制された。沖縄県は、壊滅的状況になった。多くの県民が殺された。
米軍占領は戦後も続き、沖縄県はなくなり、米軍政下で琉球政府が作られた。「疑似自治区」だ。沖縄県民は琉球人となった。琉球には、平和憲法=日本国憲法は届かず、主権も人権も平和もなく、自らの手でゼロから作り上げる闘いを続けた。
この時期、琉球人は、物質的には窮乏していたが、精神は昂揚していた。1950年代から60年代の世界史的大転換、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの植民地独立解放の影響を大きく受け、自らの手で自らの運命を切り開く意欲に満ちていた。
しかし、平和憲法への「片思い」が強すぎたため、自分を見失ってしまった。立ち位置が曖昧なまま60年代後半は「祖国復帰」へと流れていく。再び日本国民となって「平和憲法」の現実にぶつかって初めて、自分たちの「平和憲法への思いがいかに独りよがりであったのかに気づいた。しかし「時すでに遅し」。
よく知られた歌がある。
唐のユ(世)からヤマトゥぬゆ(世)
ヤマトゥゆ(世)からアメリカゆ(世)
アメリカゆ(世)からヤマトゥぬゆ(世)
ぴるまっさぁ(何が何だかわからない)ねウチナー
復帰後、日本政府は沖縄県に札束をバラまき続けている。「格差是正」の名目だが、目的ははっきりしている。「愛よりおカネ」「人の心もカネで買える」「カネがあれば何でもできる」「おカネが一番!」
日本経済の高度成長は、日本社会の伝統(自然と調和し生み出された価値観)を破壊し、カネに置き換えてしまった。何よりも「鬼畜米英」を声高に叫び、日本の有意の若者たちだけでなく、沖縄戦、東京大空襲をはじめ、ヒロシマ・ナガサキの人々の命を奪った保守支配層の面々は、何の反省もない。
それどころか、かつて「鬼畜米英」と呼んだ敵の手先と成り下がり、自国民を食い物にしている。彼らは、人権闘争としての沖縄の闘いを、金のばらまきで骨抜きにし、日本国内に飛び火することを防いだ。
復帰後40年間で、オキナワ社会は大きく変質した。隅々まで日本の国内植民地化の度合いが深まっている。オキナワを日米共同の軍事植民地として維持する彼らの目的は、成功するかに見えたが、軍隊が常駐することによる火種は消えない。
宮古島の自衛隊の通信基地は強化された。与那国への自衛隊配備は、粛々と進められている。
尖閣諸島は日本が「実効支配」し、日本の領土であることに「議論の余地はない」と言われているが、それは泥棒の屁理屈だ。明治期にアジア情勢混乱のスキを利用して盗み取ったのが事実だ。当時、中国は日清戦争に負け、琉球と台湾は植民地化されたために問題にされなかっただけだ。
尖閣諸島は、琉球・台湾・中国の漁民たちが共同利用してきており、米軍統治下でも問題はなかった。にもかかわらず尖閣の領有をことさら主張する日本政府の狙いは、自衛隊の強化だ。
国内植民地化しているオキナワ社会の現実を捉え直し、各島々が自立できる方向を目指さないかぎり、日米政府による軍事強化をはね返すことは難しい。現在では、あらゆる公共施設を自力で作れない。公務員や教員の給料も払えない。農漁協の施設も、畑地灌漑設備も日本政府の補助金なしではできない。サトウキビ販売代金の8割は補助金だ。私たちは、このような補助金漬けの泥沼から脱皮する運動を進めている。
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