2012/9/14 更新
参議院議員/沖縄社会大衆党委員長 糸数慶子さんインタビュー
オスプレイ配備の強行が目前とされる沖縄。その沖縄は、今年5月に本土「復帰」40周年を迎えた。沖縄戦を経て、「アメリカ世」とよばれる米軍の統治下から、沖縄の人々の悲願として勝ち取られた本土「復帰」。果たして、沖縄にとってその40年間は何だったのか? そして沖縄から見た日本の姿とはどんなものなのか? 8月6日、那覇市内の事務所で、参議院議員(沖縄県選挙区)の糸数慶子さん(沖縄社会大衆党委員長)にお話をうかがった。(編集部一ノ瀬)
──まず、復帰前の沖縄について聞かせてください。
糸数…本土「復帰」までは、沖縄は琉球政府が統治していました。しかし、琉球政府は、「琉球列島米国民政府」(1950年までは「琉球列島米国軍政府」)の下に置かれた機関でした。米軍の意向に合わない決定は、米国民政府がいつでもひっくり返せるようになっていました。
当時、日本本土との往来にはパスポートが必要で、予防接種もしなければなりませんでした。使っていた通貨は、58年までは「B円」と呼ばれる米軍発行の軍票がありましたが、それ以後はドルです。そばが1杯25kしていたのを覚えています。
全体的には、食べるものにも事欠いていたけれど、みんなが助け合ってしのいでいたと言えます。
──復帰してから、沖縄はどう変わったのでしょうか?
糸数…冷戦の終結、世界的な財政危機や、米国内で「在沖海兵隊不要論」が公然と主張されるなど、沖縄を取り巻く状況は大きく変わりました。しかし、米軍基地を押し付けられている現状は変わっていません。日常的に数万人もの米兵が常駐していて、爆音や誤射事件などによる被害や、住民に対する犯罪(強姦や強盗など)・事故などによって、県民の人権が守られていない、という深刻な状況にあります。
アメリカ統治下で「核も基地もない沖縄を」と、島ぐるみ闘争がおこなわれましたが、それは見事に裏切られたのです。オスプレイ配備をめぐる日本政府の態度を見ていると、沖縄への基地負担は変わっていないどころか、むしろ大きくなっていると言わざるを得ません。
現在の沖縄の生活にしても、物価が高く、失業率も全国で一番高いことは、復帰後からまったく変わっていません。
一方、沖縄の人々の心理面では、復帰当時に比べると、大きく変わりました。まず、沖縄県民が「うちなんちゅ」 であることに自信を持てるように、胸を張れるようになってきたと思います。
たとえばエンターテイメントの分野では、安室奈美恵さんやSPEEDのような沖縄出身アーティストだけにとどまらず、BEGINや夏川りみさん等々、今や数え切れないほどの沖縄音楽が日本全国で受け入れられています。エイサーや三線などの沖縄芸能文化、ゴーヤー・シークヮーサーなどの産品も、普通に流通しています。沖縄が舞台となったNHK連続テレビ小説「ちゅらさん」も人気を集めました。
復帰当時は、沖縄出身者への差別があったことを考えると、変化を感じますし、若い人たちが中心に沖縄文化の担い手として活躍していることは、私も誇りに思っています。
──物価の高さ、高い失業率を指摘されましたが、復帰後の沖縄経済は、どう歩んできたのでしょうか?
糸数…沖縄は、沖縄戦で人もインフラも経済も、すべて破壊されたところからスタートしました。アメリカの占領統治下では、沖縄の地場産業を育成する、という政策はとられませんでした。
そして「復帰」後は、本土資本が沖縄にどっと流入してきました。沖縄の主要な産業である観光をとってみても、ホテル・レンタカー・お土産品など、地元資本は本土からの資本に圧倒されて、ほとんどありません。
さまざまな産業・企業が沖縄に誘致されています。最近では、コールセンターが増えています。しかし、利益は本土に吸い取られてしまい、地元沖縄の発展のために使われるケースはほとんどありません。
国は、沖縄振興開発のために、巨額の公共投資をおこなってきました。しかし、工事のやり方は、沖縄の環境に合わない「本土方式」で、山から赤土が流出し、珊瑚礁などの環境への深刻な汚染・破壊を引き起こしています。
久米島や宮古島では、環境を破壊する海や地下水に配慮した「自然に優しい開発」が採用されていますが、残念ながら国による公共工事では、そうした開発は行われていないのです。
1975年〜76年の「沖縄国際海洋博覧会」は、そうした大規模乱開発の草分けであり、象徴的なケースです。海洋博にともなって、国道の整備や沖縄自動車道の一部開業、大型ホテル、観光施設の建設ラッシュが起きました。しかし、こうした公共工事は本土のゼネコンが独占し、地元の建設会社はその下請け・孫請けとして食い込むのがやっとでした。
海洋博は思ったよりも来場者が延びず、それを当て込んだ店舗・ホテル・民宿も期待した売り上げにはほど遠く、沖縄経済の「起爆剤」として期待したものの、結果としては「自爆剤」だったと、失望の声が上がったほどです。また、本土資本に土地を売ったものの、入ったお金を使い果たしてしまい、仕事や産業がないために困窮した人も出ました。
経済的に本土に吸い上げられる状況は、「復帰」後から今まで、基本的に何も変わっていないのです。それを根本的に変えていくことが、今後の課題です。
──沖縄の経済や基地問題の議論の中で、「沖縄は基地依存型経済だ」という話が出てきます。この点について聞かせてください。
糸数…もちろん、沖縄では米軍基地での雇用や、軍用地料などの収入は存在します。しかし現在、沖縄の県民総所得におけるそうした基地関係の所得の割合は5%なのです。観光が25%ですから、「基地がなければ沖縄は立ちゆかなくなる」とは言えません。
復帰後、米軍牧港住宅地区(那覇市)や天願通信所(うるま市)、ギンバル訓練場(金武町)など、いくつかの基地が返還されています。注目すべきなのは、その返還後、基地が生み出す雇用や消費などの何十倍もの経済効果が生み出されている、という事実です。
北谷町美浜にある「北谷アメリカンビレッジ」は、1981年に全面返還された海兵隊ハンビー飛行場の跡地ですが、大規模なアミューズメントタウンとして、若者や家族連れで賑わっています。ここでは1万人以上の雇用が生み出されています。税収も含めれば、基地の100倍を超える経済効果が出ています。
こうした実際の基地跡地の活用ケースは、「沖縄は、基地に頼らなくともやっていける」という裏付けになります。
それから、指摘しておかなければならないのは、政府の沖縄に対する「アメとムチ」政策です。これまで日本政府は、一貫して沖縄に基地を押し付けてきました。今年4月に沖縄振興予算、約3000億円が決まりました。その内、約1500億円が一括交付金です。「ひも付き補助金」としての地方交付税ではなく、使い道に制約のない交付金として「沖縄振興」と「基地負担の代償」としてのものです。しかし、これにしても、政府の政策に従わなければ、いつでも引き上げるぞ、という「アメとムチ」なのです。
沖縄戦で私たち沖縄は、すべて徹底的に破壊されました。それ以後、沖縄はアメリカ占領軍、そして「復帰」後の日本政府によって、経済的な自立よりも、本土の経済に従属する道を歩かされてきたわけです。「基地依存」という指摘は、沖縄の実情に合っていませんが、「アメとムチ」を使って、否応なく基地を押し付けられている点では、一面の事実を言い当てています。私たちが変えたいと思っているのは、沖縄が日米の植民地のような地位を強制されている社会の仕組みです。
──3・11以降、「脱原発」「再稼働反対」の声が高まり、首相官邸前や関西電力前などで抗議行動が続いています。その一方で、福島原発事故の避難や補償などの問題は、遅々として進まず、大飯原発の再稼働は強行されてしまいました。こうした動きは、これまでの沖縄の姿と重なるように思うのですが…。
糸数…そうですね。沖縄はこれまで基地を押し付けられ、その被害を受けてきました。「もう基地はいらない」という県民あげての声も、踏みにじられ続けてきたわけです。でも、それでも沖縄県民はあきらめることなく、声を上げ続けてきました。
政権交代後も、結局民主党も自公政権と変わらないということで、「私たちの声がなぜ政治に届かないのか? 」という政治への不信感、無力感が広がっています。
私は、3・11以降、原発の問題で、人々の意識が変わったのだと思います。「無関心のままではいられない」とキチンと声を上げ、行動している。これは大きな希望です。オスプレイの問題でも同じで、声を上げ続ければ、必ず変わっていくのです。
もともと政治とは、直接自分自身に関わるものです。今すぐに変わることはないのかもしれませんが、それでも「もの言わぬ民は滅びる」のです。
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